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霧訪山(1305.40m)
2007年4月15日
長野県塩尻市北小野より


等高線は20m。スケールの単位はm。

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仕事を終えて、ETC通勤割引の時間帯で高速へ。途中一度下りてから再度高速へ。これで明日6時過ぎに伊北インターを出れば片道の高速代は半額。小黒川PAでぐっすり眠ると、素晴らしい日の出が待っていた。高速を下りると、あっという間に登山口へ。まだ誰もいないだろうと行ってみると、なんともう1台先客が(6時30分、写真右)。
準備を整えて、賑々しい登山口へ(6時33分、写真左)。たくさんのハイカーが訪れるとみえて、登山届ではなくてハイカー用の雑記帳が置かれていた。登山届代わりに記入して登り始める。始めは鉄塔巡視道でおなじみのプラスチック階段(写真右)。急登だが、結構登りやすい。
ハアハアと息を荒くはきながら登ると、ゆるやかな尾根に出た。写真左はかつてここが御嶽信仰の場であったことを示す石碑。途中の「かっとり城跡」を示す標識で休んでから、遺跡を見学。なかなか興味深い城跡だ。かっとり城跡を過ぎると尾根一本で山頂へ。山頂直前で先客とすれ違う。「何か花が咲いてましたか?」と聞くと、何もないよ、とすげない返事。山頂到着は7時28分だった(写真右)。
誰もいない山頂で360度の大展望を独り占めする。こんなに簡単に登れて、こんな大展望を味わうことが出来ていいのかと唖然。写真左は北アルプス穂高連峰。左端近くにちょっと頭を出しているのが、笠ヶ岳。それから右へ西穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳、涸沢岳、北穂高岳、南岳、中岳、そして槍ヶ岳。目を転じると、八ヶ岳の山並み(写真右)。今の時間帯逆光にはなるが、南アルプスも一望だった。
写真左は二等三角点。国土地理院『点の記』によると、点名は霧訪山。珍しく山名と点名が一致している。所在地は長野県塩尻市大字刈谷沢字刈谷沢3926−2となっている。さて、写真右は安曇野の象徴常念岳。堂々たる山容。
さらに北へ目を向けると、春霞ながら北アルプス後立山連峰の見慣れた山並み。左から鹿島槍ヶ岳、五竜岳、そして白馬三山へと続く(写真左)。写真右は御嶽山。ここが御嶽信仰の場として用いられたのも頷ける。ただし、いつも見慣れた山容とは異なり、まるで乗鞍岳かと見間違う。大展望を心ゆくまで楽しんでいると、続々と登山者が登ってきて、たちまちラッシュ状態となった。小グループだけでなく、10名を越すグループがいくつも登ってきたが、北の山の神自然園から登ってくる人たちもかなりいた。帰路は往路を戻り、かっとり城跡の略測を行ってからのんびりと下りた。
さてこのまま帰ってはもったいないので、20何年ぶりに塩尻市の平出遺跡を訪ねた。国指定史跡で、戦後の日本の埋蔵文化財調査と保存の金字塔でもある。写真左は古墳時代の竪穴住居。後ろは北アルプス。この地で縄文時代から平安時代にかけて断続的に集落を営んだ人々は、いつもアルプスを見上げながら暮らしていた。つい先日ガイダンス棟ができあがったらしく、遺跡の全体像をここで知ったり、体験学習ができるようになっている(写真右)。中に入っていろいろ話をうかがっているうちに、コーヒーまでいただいてしまった。平出遺跡が塩尻の人々に愛されて、守られてきたことを改めて知った。
平出遺跡見学の後は、車で少し移動して平出遺跡考古博物館を見学。付近には発掘調査を終えた平出古墳群のがある。復元移転された竪穴住居の他に、高床式倉庫や横穴式石室も見学することが出来る。
最後の平出の泉を見学(写真左)。鍾乳洞からわき出た澄んだ水。平出遺跡に暮らした人々を育んできた泉だ。泉を見ていると、ニホンカモシカがいることに気付いて、あわてて1枚。どこで出会っても逃げようとしないのは、いつものこと。
写真左は塩尻の慈眼山永福寺の観音堂。三間四間の入母屋造で、茅葺き屋根が美しい。写真右は伊北インターへの帰路見上げた霧訪山。
※霧訪山は標高こそ1300メートルを越すが、登山口からの比高は400メートル少し越すだけの「里山」である。しかし、この比高差に似合わない大展望が待っていて、さらに大芝山への縦走路が開けるなど、最近人気が高い山の一つとなっているらしい。「大展望」「花」「歴史(遺跡と信仰)」の三拍子揃った山といえるが、このうち「歴史」についてはあまり登山者の興味をそそらないのかも知れない。
 今回は下山後に平出遺跡を訪ねた。僕が考古学を学び始めた中学生の頃、膨大な平出遺跡発掘調査報告書を手にして圧倒されたことをよく覚えている。しかも考古学にとどまらずに総合学術調査として1950年から行われた発掘調査は、開発を前提とする調査ではなかった。霧訪山を訪ねることがあったら、国指定平出遺跡(平出遺跡公園)と平出遺跡博物館をぜひ訪ねてみて欲しい。
 さて、かっとり城跡は別に稿を起こしたので、ここでは平出遺跡について少し触れておきたい。平出遺跡は縄文時代、古墳時代、平安時代の3時期にまたがる大集落遺跡である。縄文時代は中期を中心に61棟以上の竪穴住居跡が検出され、後期には敷石住居跡も発見されている。また、古墳時代から平安時代にかけては128以上の竪穴住居跡と平安時代の掘立柱建物跡が検出されている。
 縄文時代研究史で名高いのは、1950年に竪穴住居跡から倒立した状態で埋められた埋甕が検出されたことである。これを契機にして、埋甕研究が始まり、幼児埋葬説、胎盤収納説、建築儀礼説などが議論された。また、中期の平出V類A土器として分類された質素な土器は、松本盆地から伊那谷にかけて分布する地域色豊かな土器のタイプサイトとして知られている。
 濃尾の私たちにとって忘れてならないのは、平安時代の平出遺跡研究がもたらした成果である。すなわち私たちになじみの深い灰釉陶器だが、灰釉陶器という命名自体が平出遺跡の発掘調査で大量の出土を見たことによって、小山富士夫氏の発案を平出遺跡発掘調査団長であった大場磐雄氏が採用したことによって一般化した(直井雅尚「持ち運ばれた器−灰釉陶器−」(『平出博物館ノート』第20号掲載、2006年))。現在でも白瓷と呼ばれることもある(田口昭二『美濃焼』1983年他)が、平出遺跡の調査を契機として灰釉陶器が一般化したといってよい。平出遺跡の灰釉陶器は東山道によって、生産地である濃尾からこの地に運ばれてきた。一時期混乱した灰釉陶器の編年観などの解決について、消費地である平出遺跡研究が果たした役割は大きい。
 灰釉陶器が輸入文物である青磁を模倣して作られたことは周知の通りである。我が国で最初の釉薬を施した灰釉陶器は、おそらくは8世紀中葉以降に猿投で始まったと考えられている。その後9世紀後半に東濃で生産が始まった灰釉陶器は、この信濃へも東山道を通じて大量にもたらされることになるようだ。今回見学した資料に限っていえば、灰釉陶器でも9世紀にまで遡るものは少なくて、10世紀代から11世紀に下る比較的新しいものが多いような印象を受けた。私自身の調査経験のある西濃山間部にもたらされる灰釉陶器から見ると、数型式遅れるという印象が強い。今後の研究を待ちたいと思う。

●長野県塩尻市かっとり城跡について(覚え書き)はこちら

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