●長野県塩尻市かっとり城跡について(覚え書き)

                                 MIHARUの山倶楽部管理人M.S.

     1 はじめに

     2 立地と環境

     3 かっとり城跡の概要

     4 考察

     5 おわりに

     
1 はじめに

 2007年4月15日、長野県辰野町と塩尻市の境界に位置する霧訪(きりとう)山(1305.4m)を訪れた。霧訪山への登山道はいくつか付けられているが、その中で25000分の1地形図に表示されている北小野宮前から尾根伝いに登る最短のルートを選んだ。登山口からの最初の急登には送電鉄塔巡視道としてプラスチック階段がつけられ、茸山への立ち入りを注意する看板とロープが張られているなど、この道を利用する登山者が多いことを物語っていた。
 さて、登山道が急登から尾根上の緩斜面へと変わると、御嶽信仰を示す石碑が目に入るが、そこからしばらく登ると「かっとり城跡」という標柱があり、ここが古城跡であることを登山者に知らせていた。霧訪山を紹介する山岳雑誌やガイド本にはかならず登場するかっとり城跡であるが、その実態についてはあまり触れられていない。そこで、下山時に踏査を行い、クリノメータ、ミニロッド、高度計を用いて略測を試み、遺構図を作成した。ただし、茸山の立ち入り制限がされているため、踏査範囲は限定的となった。
 本稿では遺構図を紹介し、若干の考察を試み、覚え書きとするものである。


2 立地と環境

 霧訪山はJR中央本線小野駅から北西2.6キロメートルにある、標高1305.4mの山である。標高は1300mを超すが、登山口の標高が880mほどであるため、比高差としては500mに満たない山である。霧訪山から北西へは主稜線が延び、大芝山を経て松本盆地最南部の塩尻へと続く。一方、霧訪山から南東へ延びる尾根は、ほぼ一直線に北小野へと下る。小野には三州(伊那)街道が通り、北の金井へ通じる善千鳥(うとう)峠へ至る交通の要所である。善千鳥峠は天竜川水系の分水界でもある。
 さて、遺跡は霧訪山から北小野に延びる尾根上の傾斜の変換点にある派生尾根の結節点に位置し、標高は約1060mを測る(写真上のほぼ中央鉄塔付近)。霧訪山から緩やかに下る尾根筋も、遺跡下の御嶽石碑付近から急傾斜となり、左右の険しい谷筋と合わせて要害の地となっている。なお遺跡直上には送電線が走り、送電鉄塔により遺跡の中心部分は残念ながら破壊されている。

3 かっとり城跡の概要

 先に述べたとおり、遺構の中心部分は送電鉄塔により破壊されているが、西〜北側については比較的原形をとどめている(右写真の上)。後世の改変を考慮しても、かっとり城が中心曲輪のみからなる単郭の城郭であったことはまず確実である。遺跡から東へ派生する尾根は2本あるが、そのうち現在登山道がつけられている南側の尾根を下ると、御嶽石碑があるが、この下部で尾根両側が竪堀状にえぐれている。しかし人為的なものである可能性は乏しい。また、北側のもう1本の尾根には不完全な削平地状のものがいくつも認められるようだが、城郭に伴う可能性は低いと判断された。
 曲輪は約20メートル×20メートルの方形を呈し、霧訪山へ続く西側の尾根を遮断する1条の堀切を配している。曲輪内部は鉄塔による破壊のため詳細はわからないが、北側の比較的遺存状態がよい部分を見ると、土塁状の高まりを認めることが出来る。この高まりは、西の堀切に面する部分がより幅広に作られている。さらに曲輪北側の斜面は急峻に削られていて、防御性を高めている。虎口は東で、現在茸山として立ち入りを制限されている部分にそれらしき名残を認めることが出来る。なお、曲輪北側の斜面は急峻で、鋭く削られている。これに対して南の緩やかな尾根に対しては、現状では何の防御施設を認めることはできないが、これは破壊によるためとも考えられ、断定はできない。
 現状で最も明確な城郭遺構は、曲輪西に設けられた堀切である。堀切は中心の曲輪を霧訪山へ続く尾根から切断する形で設けられている。堀切幅は6メートル、曲輪上端土塁状の高まりまでの比高差は現状で6メートルを測る(写真右の中)。一方、山頂へ続く尾根部分との比高差は現状で約1.5メートル程しかない(写真右の下)。この部分に土塁も設けられてはいない。堀切の両端は竪堀となるが、北側が顕著な掘り落としとなるのに対して、南側は比較的甘い。なお、現在堀切中央部分に登山道が通っていて、土橋状と見ることもできそうだが、観察した結果、意図的な土橋として設けられたものではないと判断した。なお右の写真のミニロッドは、全長2メートルであり、堀切の規模を読み取ることが出来よう。
 以上がかっとり城跡の概要である。
4 考察

 かっとり城跡の遺構見学と略測を通して得られた知見を基に若干の考察を試みたい。
 かっとり城跡には城跡を示す標柱があり、そこには「両小野には、山城あとが三つあり、その一つで東西十間、南北十四軒、戦国時代小笠原氏の重臣の居城と伝えられ、山ろくにかけ三郎洞、井戸場、城が原の地名がある。」と説明されている。しかし踏査の結果は、かっとり城跡は単郭の山城であり、ここに記されているような「居城」とすることはできない。また、中世城郭として山麓の居館とセットとなる詰めの城と考えられないでもないが、その場合は規模や単郭という構造から極めて不自然な小規模な城ということになる。つまり、かっとり城跡は所謂居城でもなければ、詰めの城として築かれたものでもない、と考えざるを得ない。ならば、どのような目的でいつ築かれたのだろうか。
 最も蓋然性が高いと考えられるのは、麓を走る三州(伊那)街道の押さえとして築かれたとする推定である。現在も交通の要所として国道153号が走る街道は、軍事的にも経済的にも重要な街道であったはずである。街道を眼下に押さえる立地は、中世において城郭を築かせる大きな要因となったことだろう。現存する最終遺構は、切り崖の造作や堀切の深さなどから戦国期のものと考えられるが、それ以前にも城郭が築かれ、戦国期に改修されて現在見ることが出来る状態となった可能性もある。
 また、背後の霧訪山へ続く尾根とは堀切によって完全に遮断し、ここから山頂まで遺構は認められないことから、ここだけで完結した城郭と考えてよいと思われる。ただし山麓にかけては、現在の登山道が大手筋であったかどうかは断定できない。茸山のため立ち入ることができなかったが、曲輪から東に延びる2本の尾根の北側の1本がどのような状態であるか、それによる。この判断は保留しておきたい。
 最後に築城主体がどのような勢力であったかという問題が残る。これについては勉強不足で、判断する資料を持たない。今後の課題としたい。

5 おわりに

 霧訪山登山で思いもかけず中世城郭を見学することとなった。もとより塩尻の歴史について何ほどのことを知っているわけではないが、破壊を免れた遺構の見事さに驚嘆し、略測をすることとなった。山を歩いていると、このような遺構に遭遇することがよくある。そのような時に、自然と歴史の接点に山があることを改めて実感し、その見事さにたじろぐ思いがする。ここに、どのように我々が向き合おうとしているのかが問われているように思う。不十分な調査ではあるが、覚え書きとして記した所以である。

【補遺】

 本調査の後に、三島正之氏による報文に接した(三島正之「川鳥(かっとり)城」『塩尻市史』第2巻、1995年)。そこで『信府統記』中の「筑摩郡中古城地」として「北小野山の古城地、小野村より酉の方、道程五、六町程、かっとりの古城という」と記されていることを知った。また報文中には三島氏による縄張り図も掲載されていて、堀切北側の竪堀が二重になっていることを知った。茸山として立ち入りが制限されていた部分であり、今回図化できなかった部分でもある。機会を得て、補足調査を行いたいと考えている。

【追補】

 筆者が調査した後に、MIHARUの山倶楽部のW氏が、筆者と同じルートで霧訪山を訪れることとなったため、北側竪堀の存在の有無について確認を依頼した(W氏は筆者らと共にこれまでいくつかの中世城郭の略測調査を経験している)。確認調査の結果として、竪堀は認められなかったことと、遺構の現状は筆者の略図通りであろう、との報告を得た。従って、現段階では図に手を加えることは避け、後日の再調査に委ねたいと思う。