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●鉄嶺峠を歩く

                                 MIHARUの山倶楽部管理人 篠田通弘

     1 鉄嶺峠とは

     2 鉄嶺峠の歴史

     3 鉄嶺峠と鉄嶺山について

     4 鉄嶺峠を歩いて

     5 おわりに

     
1 鉄嶺峠とは

 鉄嶺峠(くろがねとうげ)とは、岐阜県揖斐郡揖斐川町大字西横山(旧藤橋村西横山)と大字坂本(旧坂内村大字坂本)を結ぶ峠で、標高は約620mである。西横山集落が標高約180m付近に立地し、坂本集落は標高約240m付近に立地するから、標高差は西横山からの方が大きい。
 さてこの峠と峠道であるが、国土地理院の25000分の1地形図には「鉄嶺峠」と表記され、「くろがねとうげ」とるびが振られている。この峠道を示す波線は、右に示す大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部「正式五万分の一地形図・横山(明治42年)」に表記されている鉄嶺峠と位置を同じくしているが、かつての西横山からの峠道が谷に沿って一直線に上っているのに対して、現在の地形図では林道北谷線の終点近くから谷に沿っての峠道に取り付くように表示が変更されている。しかしながら、少なくとも西横山側については、谷沿いに付けられていることもあって、崩壊と倒木に遮られて、通行はほぼ不能である。ネット上でわずかに散見される通行報告も、極めて限られている。
 現在では西横山と坂本は、東横山から横山ダム堰堤の上を通り、揖斐川右岸から坂内川右岸に沿って付けられた国道303号で結ばれているが、かつては藤橋村と坂内村村境付近の急峻な地形は通行が困難であったことから、両集落を最短距離で結ぶ峠道として広く利用されてきたのだった。
 しかし、現在では通行する人もない、滅びた峠である。

2 鉄嶺峠の歴史

 鉄嶺峠が記録に登場するのは、比較的新しいことである。文字として登場するわけではないが古絵図の初見は、筆者の知る限りでは左に掲げた1698年の「元禄11年戌寅年美濃国池田郡大野郡小嶋西北山筋古絵図」である。これは写しが現存していて、その鉄嶺峠付近を当ページに掲載した。この絵図は川筋と街道について正確に記していて、西横山から坂本へは揖斐川の川筋から離れて、峠道を登り、峠を越してからは屈曲して坂本へ下っている。この道筋と先に掲げた陸地測量部の「五万分の一地形図」の道筋と比べてみると、正確に描かれていることに驚く。
 文字として「鉄嶺峠」の名が見えるのは、19世紀初頭に記された、『濃州徇行記』である。筆者は尾張藩士であった樋口好古で、寛延3年(1750年)に生まれ、文政9年(1826年)に没している。樋口は寛政4年に国方吟味本役となってから、文政5年までの31年間かけて『郡村徇行記』39冊を完成させた。樋口が尾張全村と美濃、近江の藩領を自分自身の足でまわり、記録したものであり、『濃州徇行記』はそのうちの美濃分である。この中に「池田郡西横山村」の「山川」として、「鉄嶺在村西以山顚為界西属広瀬」と記されている。読み下すまでもないが、「鉄嶺は村の西に在り、山の頂(顚)を以て境界と為す。西は廣瀬に属す」となる。これが文字としての初見である。
 絵図に鉄嶺峠の名が記されるのは、1834年の「天保五年吉野屋仁兵衛・山城屋佐兵衛刊・細見美濃国絵図」(右図)である。江戸幕府は慶長9年(1604年)をはじめとして計4回の国絵図作成を命じているが、そのうちの最後の命に際して版行されたものである。西横山と東横山が朱色に刷られているのは、尾張藩領であるからである。この絵図には名所旧跡や名産品も刷り込まれていて、なかなか興味深い。たとえば掲載部分には「蘇茂岐山」の名も見える。現在では「ソムギヤマ」を「蕎粒山」「蕎麦粒山」とする表記が多いが、同絵図は音仮名で記し、よく発音を伝えている。また飯盛山については「此雲アレハ天気ヨシ」と、観天望気の目安も書かれている。また東横山の右には「権現山」とあり、これは権現山(通称、小津権現山)であることは間違いない。
 さて同絵図には西横山と坂本を結ぶ峠道が正確に図示されていて、その横には「鐵嶺」と西横山側に註記されている。これが文字による鉄嶺峠の初見である。ここで注意しておきたいのは、「鉄嶺」と記されていることである。これは『濃州徇行記』も同様であった。同絵図には読み仮名は記されていないが、「嶺」は「ミネ」ではなく、「トウゲ」の意である。「鉄」は「クロガネ」であるから、「鉄嶺」の二文字で「クロガネトウゲ」と読むことは間違いない。
 明治15年(1882年)に大野池田郡長として管内を巡察した棚橋衡平は、『西北山巡回紀行』に「坂本村、民戸二百余戸」と記した後、「東有鉄嶺崇聳数百仭」と記している。
 また、『明治廿六年七月大野池田郡地誌』(大野池田郡教育会編、1893年)では、「北山地方」の「山川」に「四周に駢列する高山名を列記すれバ白山若丸山冠山夜叉壁椀戸、大樽火、金糞、鳥越、新穂の諸山にして越前近江の境に屹立し飯盛山は西山地方との境を分つ而して鏡山烏帽子山等の諸山は部(郡の誤記か)内に散在し徳山村と広瀬村外二ヶ村の境をなし鐵嶺廻月山等は又津汲村との区域をなす。」としている。
 これまでに見た文献では、すべて「鉄嶺」の二文字をもって表記していることに注意したい。
 しかし明治も終わりになると少し事情は変わってくる。
 明治42年(1909年)の『岐阜県揖斐郡坂内村内註記調書』では、「峠」として「鉄嶺峠」を「本村大字坂本ヨリ本郡久瀬村大字西横山ニ通ズ道路改修以前ハ通行路ナルモ改修後ハ通行稀ナリ」と記している。「鉄嶺」では「くろがねとうげ」と読めないだろうという配慮からか、ここで初めて「鉄嶺峠」の表記が出てくる。いわば、「くろがねとうげ峠」と表記するに至ったことになる。
 大正3年(1914年)に大橋清波は「夜叉ヶ池探検行(四)-昔は仙境なりし川上村-」と題する文章を『新愛知』8月号に寄せ、その中で坂内村川上の概況について述べた中で、「明治廿七年初めて道路が出来た。夫れ迄は東に横山の鉄嶺峠、南に新穂峠、西南に八草峠、北に頬脹峠があって、何方へ出るにも山阪(ママ)を越すゆゑ村の名を阪内(ママ)と称したものである。」と記している。「鉄嶺峠」という表記である。
 大正4年(1915年)の『岐阜縣揖斐郡坂内村是』では、「本村大字広瀬ヲ経テ川上ニ達スル坂内街道ハ久瀬村大字東横山ナル郡道北山街道終点(徳山村トノ分岐)ヨリ起リ同村西横山ヲ経テ本村ニ入ル該道路ハ古来ヨリ坂路(俗ニ黒金峠ト称シ、道路上下一里二十丁)ニヨラザル可ラザリシモ明治二十四年ヨリ二十五年ニ至リ現在ノ道路ニ改修セラレ漸次延長シテ・・・・」と記載している。この時すでに「鉄嶺峠」と表記して「くろがねとうげ」と読ませる表記があるにもかかわらず、「鉄嶺」をもって「くろがね」と読ませることに苦慮してか、ここでは「黒金峠」の表記を用いている。
 大正13年(1924年)に揖斐郡教育会が刊行した『揖斐郡志』では、「坂内村 坂本」について、「此地鐵嶺峠の麓にあれば村名起れり。」とし、「坂内街道」として「藤橋村西横山より坂内村廣瀬を経て川上に達す。本郡延長 四里餘。道幅 九尺。沿革 明治二十四年二十五年に亘り廣瀬まで改修二十七年川上迄開通。」と解説している。
 ここにもって、「くろがねとうげ」に対して「鉄嶺峠」と表記することが定着し、揖斐川町に合併する前の坂内村でも国土地理院に対して地名調書を提出した際に、難読地名として地形図に振り仮名を付けることを具申して、今日に至っている。
 鉄嶺峠の表記と音の齟齬については、『坂内村誌』編纂に尽力された故松岡浩一氏が度々指摘してこられたところであることも、ここに明記しておきたい(松岡浩一「坂内村周辺の地名雑感」『第9回「揖斐谷の自然と歴史と文化を語る集い」(揖斐谷ミニ学会)レジュメ集』所収、1991年、など)。

3 鉄嶺峠と鉄嶺山について

 鉄嶺峠の北東約600mのところに、三等三角点がある。673.04mで、国土地理院の『点の記』によると、点名は「中之原(なかのはら)」で、所在地は岐阜県揖斐郡坂内村大字坂本字中之原4079番地の1となっている。
 この三角点が埋設されているピークについて、地元では特別な呼び名はない。揖斐郡内の公称地名と私称地名の悉皆調査を行い、郡内で1万1412の地名を採集・集録した揖斐郡教育会編『岐阜県揖斐郡ふるさとの地名』(1992年)においても、やはりこのピークについての地名は採集されていない。
 さて、このピークには近年、奥美濃をフィールドとして山を歩く人たちによって、「鉄嶺山(てつれいさん)」という名称が与えられている(大垣山岳協会編『美濃の山』第1巻、1996年)。しかし意味を解すると「くろがね峠山」となってしまい、峠の名なのか、山の名であるのかよく分からない、ということになる。
 それでは、「鉄嶺」を音読みして「てつれい」と読むことはなかったのだろうか。
 明治41年(1908年)に岸彦之丞氏が作詞した「横山尋常小学校校歌」には、その三番に次のような歌詞がある。

 「北は鶴見区 杉原区
  西坂内と隣りせり
  小津権現に鉄嶺は
  東と西にそびえ立つ」

 この場合、「おづごんげんに てつれいは」と歌ったようだ。
 さらに、作詞者不詳ではあるが、大正年間の「横山尋常高等小学校校歌」の二番に、次のような歌詞がある。

 「すなおに聳える権現は
  永久に変わらぬ我が操
  鉄嶺山の頂の
  月を鏡の草木や」

 ここでは「てつれいさん」との歌詞が与えられている。
 また、横山国民学校で運動会などに大声を張り上げて歌ったという、中野由五郎氏の作詞による「横山校郷土歌」を覚えている人もあり、そこでは次のような歌詞があった。

一、白雲なびく権現山
  紅葉の色に染めなして
  白銀引ける揖斐川の
  岸に千草の花を織る
二、紫煙る鉄嶺山
  彩雲花と美を競い
  汲めども尽きぬ谷川の
  水玲瓏の玉と散る

 横山を挟む山々を「権現山(ごんげんさん)」と「鉄嶺山(てつれいさん)」と称して、この2つの山並みが横山の東西にそびえている、と読み込まれている。
 つまり、「鉄嶺」と二文字で表記されてきた「くろがねとうげ」が「鉄嶺峠」と表記されるに至った理由は、「鉄嶺」が本来はそれだけで「くろがねとうげ」と読むべき表記が、難読につき「鉄(くろ)」「(が)」「嶺(ね)」と分解して理解されるようになり、「峠」が「鉄嶺」に付け足されるに至って、「鉄嶺」は「峠」から切り離されて「鉄嶺(てつれい)」と音読みされるようになった、と考えられる。以上資料をたどったところによると、それは明治の終わり近くになってのことと考えられるのである。
 鉄嶺峠は今や忘れられようとしている峠である。明治25年(1892年)に揖斐川・坂内川に沿った道が整備されてから、実質的にはこの峠道は廃道となった。今や人が訪れることも少なく、同時に三角点あるピーク、「中之原」へも訪れる人は少ない。この地名に込められた歴史に思いを寄せる人はなおさら少数ではあろうが、ここに記しておく次第である。

4 鉄嶺峠を歩いて

 さて、現在の鉄嶺峠であるが、かねてから訪れたいと思いながら、なかなか果たすことが出来なかった。毎日自宅から望む指呼の距離にありながら、これまで機会を見つけることが出来なかったのは筆者の怠慢である。が、2007年11月25日にようやく実現することが出来た。
 写真左は東横山から見た鉄嶺峠(中央鞍部)である。先に述べたように、西横山側から鉄嶺峠への道は、崩落し倒木が覆い尽くしていて全く通ることは出来ない。そのためやむを得ず、イビデン鉄塔への巡視道を利用し、迂回して述べることとした(冒頭のルート図参照)。林道北谷線を終点まで歩く。終点近くにはかつて藤橋村があった頃、「村おこし」の中で売り出そうとした「太郎兵衛の滝」の案内板があるが、現在では訪れる人もほとんどなく、安全のため道は閉鎖されている。この林道の終点から、巡視道に取り付いた。
 イビデン巡視道は巡視道とはいっても、中部電力の巡視道のようにプラスチック階段が整備されているわけではなくて、踏み跡をたどるルートである。谷に沿って付けられていて、谷底に向かって急峻な崖となっていて、滑りやすい山道は一瞬たりとも気が抜けない。さすがに下草は刈られているが、道そのものにはあまり手が加えられていない。
 崩落箇所を横切ったり、崩れた道をよじ登ったりして、やがて巡視道は山腹を綴れ織りに尾根へ向かって上り始める。尾根に出たところが、15番鉄塔である。ここからは尾根伝いに旧村境尾根まで出ることが出来、ようやくひと息ついた。
 旧村境尾根からは北へ尾根をたどる。踏み跡はなく、藪こぎとなる。鞍部に降り立ったところが、鉄嶺峠である。峠は切り通しとなっていて、峠の西側にやや平坦となっている削平地がある。切り通しの西横山側は藪に覆われていて、峠道の面影を探すことも困難だった。
 さて、切り通しのすぐ北の尾根上に、石地蔵がある。まだ新しいタオルを衣服にまとっていた。地蔵の前には、カップ酒と缶ビールが備えられていたが、備えられてどれほども日がたっていないように新しかった。この石地蔵は名古屋在住の伊藤萬蔵氏が通行人のために安置したものであり、明治の始め頃とも伝えられている。同氏は信仰心が厚く、谷汲山をはじめ各地の寺院に寄進している。鉄嶺峠の峠道を通る人も少なくなって、この石地蔵は移転が協議されたこともあるが、地蔵を動かすことによる災難を恐れて、そのままとなっている。
 鉄嶺峠の石地蔵には次のような話が伝えられている。

 ある日、坂内の方から昇ってきた若者が峠で一休みし、退屈まぎれに地蔵を動かして坂内の方へ向けて山を下りていった。仕事を終えて峠に戻った若者は、地蔵の向いた方向へ山を下りていくと、坂内の方でなくて横山の方へ降りてしまった。これは地蔵さんが自分で向き直されたに違いないということになった。古老曰く、「地蔵さんは名古屋の人がわざわざ建てて下されたものだから、名古屋の方を向いている。だからどんな見通しの悪いときにでも地蔵さんの向きを見れば方角が判る。いたずら者が向きを変えたら旅人は困るだろうと思い、元の方向へ向きを変えなさったのだ」と(藤橋村史編集委員会編『藤橋村史 下巻』1982年)。

 石地蔵は今もなお、名古屋の方を向いて峠にたたずんでいる。

 さて峠から坂本までは、かつての峠道がそのまま残されていて、たどることができる。最初は峠北のピークを避けて山腹をトラバースし、やがて北西に派生する尾根上を、急勾配は綴れ織りに、やがて緩やかになってからは尾根上をjまっすぐ下っている。山腹を巻く道は、所々崩壊が見られたり、倒木が遮ったりはしているが、道を見失うことはない。また道がやや広くなって山側に平坦な石が置かれているところもあって、所謂「休み場」がもうけられていたことがうかがえた。北西に延びる尾根上の峠道は、掘り割り状になっていて、かつての峠の隆盛がしのばれた。写真右は坂本から鉄嶺峠を振り返って。
 今回の山行の所要時間である。西横山の善龍寺前を起点として、峠までが2時間、峠から坂本までが1時間の計3時間だった。往路は標高差があったことと、本来の峠道を通ることができなかったため、余分に時間がかかっていることを考えると、およそ2時間半もあれば峠越えができたと考えられる。ちなみに帰路は国道303号を歩いたが、寄り道をして坂内道の駅まで歩いたので、そこから西横山善龍寺までちょうど2時間で、山歩きと比べてこちらの方がはるかに長い道のりだった。地図ソフトを用いて水平距離を計測すると、往路が3.2キロメートル、復路が峠を降り立ったところから計測して7.7キロメートルであった。

5 おわりに

 これまでの精進不足を恥じて、筆者の最も身近な峠、鉄嶺峠を歩いた。本来の峠道のすべてをトレースすることはかなわなかったが、いろいろ考えるところが多かった。
 鉄嶺峠の峠道は、明治25年(1892年)以降実質的には廃道となった。しかし、戦前戦後を通じて、意外にも学校教育の中では鉄嶺峠は生きていた。遠足でこの峠を越したことを記憶する人も多く、実質的に廃道となってからも東西横山と坂本にとって身近な峠であり続けた。もちろん山仕事で山へはいる人からも石地蔵は大切にされた。今回峠の石地蔵をたずねて、新しい衣服をまとっている地蔵を拝むにつけ、改めて鉄嶺峠がこの地域に果たしてきた役割を思い知ったのだった。
 小稿をまとめるにあたって、鉄嶺から鉄嶺峠への変遷についてやや詳しく述べた。同時にかつて存在しなかった山名が登場し始めたことについても触れた。これに関連して最後に触れておきたいことがある。それは、近年になって新しく登場する「山名」についてである。
 最近、山歩きの人たちから夜叉ヶ池南西の県境ピークに対して「夜叉ヶ池山」なる名称が与えられている、らしい。ネットで検索すると、かつて山名が与えられていなかったピークに対して名付けられているようだ。これもまた、池の名なのか、山の名なのか、ということになる。
 また、旧徳山村と旧根尾村との境界に「徳山富士」なる地名が、登山愛好者によく知られた昭文社『山と高原地図 白山・荒島岳』の地図に記されていることを教えられ、所有している同地図を驚いて見直したことがある。おまけにこの「徳山富士」が、山梨県河口湖畔の石碑に「全国富士一覧」に刻まれていることも知った。かつて徳山村があった当時には、村民の誰一人として呼ばなかった「山名」である。
 このような例が最近増えてきている、と思う。地名は時代によって変遷する。新しい地名が生まれることもあるだろう。しかし、いったい何時、誰が、どのような根拠で、どこの場に公表して、一般に採用されるに至ったのか、何一つ明らかにならないまま「地名」として「定着」していくとしたら、少々の疑念を表明せざるを得ない。
 地名は文化であってほしい、と思う。地名に託されてきた地域の歴史を大切にしていかねばならない、と改めて感じたことが鉄嶺峠を歩いた最大の成果であり、今後の課題でもあると思い知ったのだった。
                                       (2007年11月28日脱稿)