●ホハレ峠を歩く

                                 MIHARUの山倶楽部管理人M.S.

     1 ホハレ峠とは

     2 ホハレ峠の歴史

     3 往還する峠

     4 ホハレ峠を歩いて

     5 おわりに

     
1 ホハレ峠とは

 旧徳山村門入(現揖斐川町門入)から旧坂内村川上(現揖斐川町坂内川上)を結ぶ峠に「ホハレ峠」がある。峠の標高は814mで、門入との比高は約380m、川上との比高差は約430mで、やや川上側の方が比高差がある。門入から黒谷に沿って道はつけられていて、峠を越えて川上浅又を経て川上へ至る峠越えの道である。
 門入(かどにゅう)は徳山村の8集落の一つで、揖斐川支流西谷川最上流の村で、標高は約440m、村の中心であった徳山村大字徳山(通称本郷)からは16キロメートル奥にあった集落で、標高も約150m高かった。
 池田郡門入村は明治8年にホハレ峠が結ぶ川上村に一時合併して「川上村」となったが、明治17年に川上村から分離して徳山村へ編入されている。
 徳山ダム建設事業に伴い徳山村が廃村になったのは1987年のことだった。ダムの満水時の水位は401mで、村で唯一門入が水没を免れることとなったが、藤橋村との合併に際して徳山村全村離村が前提とされる中で、村民は離村せざるを得なかった。そして私もまた徳山村廃村の1987年3月に、ここ門入を離れたのだった。
 ホハレ峠の語源は不明である。ただ、私が村にいた頃、「峠越えがきつくて、頬がはれるほど大変だったから、ホハレ峠という。」という話をよく聞き、また村でも大方そのように考える人が多かった。
 1965年王子製紙が門入からパルプ材を搬出するために門入、川上間に私設の作業道を付け、この作業道を通って自動車で川上へ越すことが出来るようになったが、この自動車道も1970年代後半には通ることが出来なくなり、以来荒れるにまかせた状態で、国土地理院地形図に記載されているものの、車はおろか徒歩でも通行することはできない。ネット上にはこのルートを辿った報告をいくつか散見することが出来るが、遭難と隣り合わせの状態を覚悟しなければならないようだ。

2 ホハレ峠の歴史

 下図は大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部「正式五万分の一地形図(明治42年)」よりホハレ峠付近の抜粋である。このホハレ峠道がいつ頃から交通路として利用れさたのかは定かではない。賤ヶ岳の合戦の後、天台宗(一説では真言宗)であった本郷の増徳寺が湖北菅並の洞壽院から松厳梵梁師を招いて曹洞宗に改宗し、これを機に徳山と江州との結びつきが強まったと考えられてきた(徳山村史編集委員会編『徳山村史』1973年)。
 しかし門入には縄文時代の遺跡である門入村平遺跡が知られていて(篠田通弘「岐阜県揖斐郡徳山村の遺跡」『古代文化』第33巻第11号掲載、1981年)、表採資料ではあるがサヌカイト製石鏃も発見されている。目視によると、このサヌカイトは奈良県と大阪府の境にある二上山系と考えられ、縄文時代には近江を経由して二上山のサヌカイトがもたらされていることは、まず間違いない。その主たる交通路として、縄文人もまたホハレ峠を越して川上に至り、八草峠を越して近江へと続く交通関係を維持していた可能性がある。現在までに分布調査の知見からすれば、さしずめ川上の大草履遺跡がその中継遺跡として重要な役割を果たしていたと考えられ、この山越えの道が縄文時代にも利用されていたとも考えられるのである。
 さらに時代をさかのぼれば、旧徳山村山手の寺屋敷遺跡から検出された姶良Tn火山灰下(約25000年以上前ともいわれる)の旧石器中にサヌカイト製ナイフ形石器があり(篠田通弘「平成6年度徳山ダム水没地区内埋蔵文化財緊急調査の概要」『「第13回揖斐谷の自然と歴史と文化を語る集い」レジュメ集』所収、1995年)、峠のルーツが旧石器時代にまで遡る可能性も否定できない。
 川上に残されている『川上村絵図』(嘉永5年、1852年)には「入坂ほうはれ峠」とあり、川上からホハレ峠へ至る道が「入坂」とされていることが興味深い。この絵図が「ホハレ峠」の初見であろう。ちなみに門入(かどにゅう)、戸入(とにゅう)が「門を入り」「戸を入る」という意味ではなく、西谷一帯に分布する「ニュウ地名」であることと、「ニュウ地名」がかつて水銀を産出したことに起因することが分かっている(永江秀雄「門入と丹生の研究」『徳山村−その自然と歴史と文化(2)』所収、1985年)。
 近世から現代にかけて、ホハレ峠が結ぶ徳山村と坂内村、そしてさらに八草峠が結ぶ湖北との交流は、どのようなものだったのだろうか。
 ここに滋賀県伊香郡杉野村の明治初期の通婚圏に関する調査がある(小牧実繁他「杉野谷調査覚書」『滋賀大学紀要』第8号所収、1958年)。杉野村の各集落、土倉、金居原、杉野、杉本、音羽の村民の配偶者375人の出身地を分類したものである。それによると、各集落内が304人、村内他集落が17人、村外(滋賀県)が13人、坂内村が26人、徳山村が7人、他という結果が出ている。つまり村外の婚姻では、滋賀県内よりも岐阜県の方が多く、八草峠を経て隣接する坂内村と、そらにホハレ峠を経てつながる徳山村が多いという結果が報告されている。すなわち坂内村も徳山村も、峠越えの交通路を通じて、湖北三郡と極めて密接な関係を持っていたことを、この調査結果は物語っている。
 大野・池田郡長棚橋衡平に宛てて池田郡開田村外二ヶ村戸長役場が報告した「峠道及坂路ノ難易取調調書」(明治18年、1885年)にはホハレ峠について、「池田郡門入村ホウハレ峠麓黒谷ヨリ峠迄弐拾町但シ道幅三尺平均」と記載されているが、同調書の「戸入村折ヶ瀬坂麓ヨリ上リ四町下リ三町難」とあるのに対して、ホハレ峠への道が取り立てて困難な道としては報告されていない。
 門入からホハレ峠へ至る道には、花崗岩製の地蔵尊が現在も祀られている。また同じく花崗岩製の地蔵尊がホハレ峠に現在も安置されているが、こちらは石積みの上に置かれている。これについて揖斐郡教育会編『揖斐郡志』(1924年)に「坂内村川上と徳山村戸入(門入の誤植)との間なる頬膨峠上路傍には長六尺高二尺三寸の石畳みを築き荷物を肩荷ひたる儘荷を其上に置き、休息の便を計りたるものゝ如き、公衆相互の利便を計りたるものあり。」とあり、ホハレ峠に「頬膨峠」の文字が当てられていることと、この峠が物産流通の要であったことを知ることが出来る。
 ホハレ峠は繭ボッカ、栃板ボッカが列を作って越した峠でもあった。栃板運びは、男で20貫目近くの、女でも10貫目近い重い荷を運んだが、門入から主として運び出されたのは栃板であった。栃板は川上までボッカが、川上からは馬車で揖斐へ運ばれた。栃板を運び出した帰路は、米、塩、塩魚、酒、昆布などを運んで戻るのが常だった。また、ホハレ峠を通って行商人たちも門入を訪れた。福井からは漆器、木之本からノコギリ、ヨキ、ナタなどもこの峠を通って運ばれた(揖斐郡教育会『道』1983年)。これらボッカにまつわる地名が、ホハレ峠越えの道で採集されている。門入から半里ほど登ったところに「コウジヤスマ」が、1里ほど登ったところには「イチリヤスマ」があり、一度に10数人ものボッカが背負った荷を乗せて休むことが出来るように石が組み合わせてあった(揖斐郡教育会『岐阜県揖斐郡ふるさとの地名』1992年)。また付近では「オギソコロビ」など急傾斜地での事故にまつわる地名も採集されていて、ホハレ峠越えの苦労を物語っている。

3 往還する峠

 ホハレ峠はさまざまな人々が往来した。橋浦泰雄氏は1925年10月4日に温見から美濃峠(温見峠)を越して扇谷へ入り、本郷に5日まで泊まっている。6日には秋雨の中、門入へ入り、7日にホハレ峠と八草峠を越えて木之本へ出ている(橋浦泰雄『民俗採訪』1950年)。桜田勝徳氏は1936年5月に徳山村本郷に1泊、ついで戸入に1泊した後に、門入を経てホハレ峠を越して川上へ出ている(桜田勝徳『美濃徳山村民俗誌』1951年)。
 ホハレ峠の道は1953年に門入〜本郷間の車道が開通すると次第に使われなくなっていった。この頃の様子を伝えている報告がある(細井邦子「ホハレ峠」『かもしか』第12号掲載、1963年)。岐阜登高会の会報『かもしか』に掲載された同報告は、1962年10月20日〜21日に訪れた時の様子を伝えている。当時本郷と戸入は自家発電が始まっていたが、外の集落はまだランプ生活だった。篠田公平氏、細井邦子氏外1名は、20日バスで本郷に到着し宮本屋旅館に宿泊。翌日タクシーで門入に入り、門入を8時30分に出発してホハレ峠に10時50分、川上に14時20分、広瀬には16時に着いている。この頃のホハレ峠越えの道は「すごく荒れた道」と化していて、熊を心配しながら、また山芋掘りに川上から登ってきた人たちに熊の心配はなくなったと安心しながら、峠を越している。同氏はこの中で「徳山村と坂内村結ぶ唯一の峠径なのでもっと立派に整備されていると思っていたが、人の踏跡が残っていると云った程度の淋しい、そして本当に奥美濃らしい峠道であった」と記している。本郷への村道が開通してから、急速に利用されなくなったホハレ峠の様子がわかる。この3年後に王子製紙の樹木運搬のための作業用道路が建設され、ホハレ峠は完全に廃道となった。
 加藤復三氏は王子製紙の作業用道路を通ってホハレ峠を越している(加藤復三「揖斐谷の峠の思い出」『第8回揖斐谷の自然と歴史と文化を語る集いレジュメ集』所収、1990年)。それによると、「通れなくなる少しまえに通ったことになる。当時の山日記を見ると、門入、ホハレ峠間11,6キロメートル、峠、川上間7,3キロメートルと記してある。路傍に地蔵さんがあり、道路の両側に旧道らしい径が下がっていた。」と記されている。また、「現在この林道は5万図のホハレ峠とある少し手前までは車は川上より通行可能である。なお地蔵さんの位置は地図のホハレ峠の位置でなく烏帽子山への林道沿いにある。これより先は烏帽子山方面の林道、門入への林道どちらも車はおろか歩行も困難であり、自然の中に消え去ろうとしている。」とされている状況は、現在もなお基本的に変わらない。

4 ホハレ峠を歩いて

 ホハレ峠を越して門入へ入ることが出来る、と聞いたのは今年の春のことだった。最初は王子製紙の作業道をたどったものかと思ったが、すぐにそれは不可能であることを知った。門入はなつかしい村だった。しかも滅び去ったとあきらめていたホハレ峠道を歩くことができると聞いて、胸は躍った。
 2007年9月20日、ホハレ林道を詰めてホハレ峠まで車で入る。総勢3名で、そのうちの1人が先達。ホハレ峠付近の林道の狭いスペースに車を置くと、旧徳山村側と旧坂内村側の両方に急傾斜で下がる道跡を見つけることが出来た。旧坂内村側はすぐに崩壊しているようだったが、旧徳山村側は最初の急傾斜を下れば比較的不安定した踏み跡がついていた。また旧峠道への入り口には赤紐が下がっていて、目印としてあった。
 黒谷の左岸に沿って付けられた峠道は、所々で崩壊していて、ここを利用する人が付けたトラロープが下がっていたりして、思ったよりずっといい道だった。といっても、そこは長く忘却された道で、山歩きの経験の少ない同行氏によると、一人で入ると迷子になるかもしれない、との弁。訪れる人は本当に少ないらしく、登山道によくありがちなゴミの散乱もなく、季節外れの晩夏の花たちが道を覆い尽くしていた。
 峠道はやがて谷のせせらぎを聞くようになり、標高を下げていくと、何度か徒渉を繰り返して、砂防ダムの滞砂を横切って、砂防ダム工事用道路によじ登った。ここから工事用道路を歩いて、今や廃村となった門入集落跡へと着いた。しばらくの滞在の後に、再びホハレ峠を目指して黒谷を登ったのだった。長い歴史の峠道は、所々の崩壊はあるものの、よく踏まれた、歩きやすい峠道だった。
 門入は様変わりしていたが、山々は昔のままだった。山々を見ていると、あれから20年以上が過ぎたことが嘘のように感じられるのだった。

5 おわりに

 門入の集落跡では記さなければならないことが多くあるが、今回は割愛し、ホハレ峠をめぐっての記録の整理に努めた。訪問の主旨と成果については、近い機会に記すことになるだろう。
 ただ一つだけ書いておかねばならないことがある。それは、すでに徳山ダムの湛水は戸入集落跡を完全に埋めて、戸入と門入との境にまでやってきている、ということだ。ダムサイト近くに作られた徳山会館からは、戸入に向けて湖上を進む小形船による仮運行が始まったが、双胴船による車両を積んでの本格運用は、来年の試験湛水終了後まで持ち越されている。現在週1便のこの船を利用したとしても数時間の滞在に限定されるため、戸入の船着き場で船を下りても、そこから門入まで歩いて往復することはできない。となると、門入へ入る唯一の現実的な方法は、徒歩でホハレ峠を越すしかないのである。
今回、忘却のかなたにあると考えられたホハレ峠を実際に歩くことができたばかりか、峠に今また新たな命が与えられていることを知って、実にすがすがしい気持ちだった。
 朝史門(森本次男)氏は今から60年以上も前の1941年に「およそ峠という峠は日本の国からなくなってしまふやもはかられる」と記した。そして「人間が峠を拵え人間がその峠を亡ぼしてしるのだ」とし、さらに「いずれは峠の如く山村は唯、都会の延長にすぎなくなって山旅人を悲しませることだろう」と嘆いた(朝史門『山の風景』1948年)。
 ホハレ峠は、村道の開通によって一度滅びた。王子製紙の作業道の開通によって、峠道再生の途は消え去った。しかし徳山ダム湛水後に、水没することのない門入への想いから再びホハレ峠は息を吹き返したのだった。そこにあるのは、ただ徒歩に依るしかない、峠越えの道であった。ホハレ峠を越して、それが何よりもうれしかったのだった(2007年9月22日記す)。