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白峰三山(北岳3193m他)
2007年8月5〜8日
山梨県南アルプス市広河原より


レリーフの等高線は50m。スケールの単位はm。他の山行記録と等高線、縮尺が異なることに注意。

(画像のうちいくつかはクリックすると拡大画像を表示します。戻るときはブラウザの「戻る」から。)

第1日(広河原〜北岳肩ノ小屋)

遅れた梅雨明けと共にやってきた台風が過ぎ去ることを見越して、前日に甲府までやってきた。時間の関係で昨年見学できなかった、北杜市梅の木遺跡や明野埋蔵文化財センターを見学し、武田氏の最後の本城である新府城跡を見学することもでき、さい先の良いスタートだ。天気予報では明朝は雨とか。心配しつつ甲府駅近くのビジネスホテルで1泊。3時半過ぎに甲府駅へ。昨年と同様、今日は日曜日なのに、20人近くが並んでいた。4時発、甲府交通の広河原行きバスへ乗り、夜叉神の森を経て広河原へ着いたのは6時少し前だった。アルペンロッジ前で少し口に入れ、歩き始めると北岳とバットレスが目に飛び込んでくる(6時15分、写真左)。左に大樺沢の雪渓の見える。吊り橋を渡って、広河原山荘で身支度をする登山者を見送って、登山道を進むと白根御池コースと大樺沢二俣コースの分岐に出た。ほとんどの登山者は大樺沢へと進むが、ここは古くから歩かれている白根御池への尾根直登を選ぶ。樹林帯の中、直射日光も遮られるのではないかと期待したが、日差しが和らいだ反面、風もやってこなかった。
白根御池の道を登る人はほとんどいなかったが、下山ルートとしてはよく使われているらしく、たくさんの下山者とすれ違った。なんとなく追い抜いた、イングランドから日本へ来ているという若者と一緒に行くことになり、暑い、暑いを連発しつつ白根御池小屋に着いたのが9時ちょうどだった。白根御池小屋は1999年春の雪崩で倒壊後に新しく再建されていて、水洗のチップトイレも備えられている。ここで豊富な水を利用して補給。いくつかのグループが汗を拭きながら生ビールで乾杯していたが、どうやら北岳を朝下りてきた一団らしい。昨日は強風とガス、それに満員で散々だった、といいつつ、傾けるジョッキはこちらからすると垂涎ものだったが、ぐっと我慢しながら大休止。写真右のテン場の向こうに池がある。かつて山岳信仰の場として北岳が登られていた時は、御池に御洗米を投げ入れてから登山した。日照りの時は村中でここに参拝し、それでも雨が降らない時には非常手段として御池に牛や馬の骨を投げ入れて、龍神の怒りを誘い降雨をもたらすことに成功した、という。
カチカチ山のタヌキはきっとこんな気持ちだっただろうと思いながら、日干しの急登をひたすら登る。草すべり、というだけのことはある。見下ろすと白根御池小屋がどんどん小さくなっていく(10時9分、写真左)。右俣コースと合流するあたりで、ザックを下ろして昼食を兼ねて大休止。再び登り始めたものの、この辺りから一面のお花畑が広がっていて、遅々として進まず。写真右は主稜線近くのお花畑(13時)。
イングランドから若者は、今回がアルプスは初めてとか。イングランドでは高い山はなくて、せいぜいが900m。スコットランドの方がもう少し高い山があるらしい。今日は北岳山荘まで行きたいと言っていたが、ちょっとむずかしいかなあ。急登も終わりを告げ、ようやく主稜線が見えてきた(13時05分、写真左)。主稜線の小太郎尾根との分岐点では、小太郎尾根の向こうに甲斐駒ヶ岳がそびえていた(13時08分、写真右)。
腰を下ろしてしばらく眺めていると、甲斐駒ヶ岳が姿を消したと思うと、小太郎尾根の上に夏空が広がってきた(13時21分、写真左)。北風が強く、どうやら今日は雷雨の心配はなさそうだ。なだらかな尾根を歩き、最後の岩場の急登をよじ登ると、北岳肩ノ小屋に着いた(14時、写真右)。北岳はガスの中だった。
受付を済ませて、ザックを寝床へ運ぶ。どうやら今日は上を向いて寝られるらしい。ちゃんと1人分のスペースはあるようで、やれやれ。ビールを片手に外に出ると、ガスがどんどん晴れ始め、テン場の向こうに鳳凰三山が広がっていた。一番左に地蔵岳のオベリスクもしっかり見える。赤焼けを期待したが、西の雲が厚くて赤くはならなかった。写真右は日没(18時44分)。このあと再びガス。結局イングランドの若者は肩ノ小屋のテン場でテントを張ることにした。テン場は、某大学のワンゲルもやってきていて、設営を終わった学生さんたちが広場へ上がってきては晴れゆく稜線を眺めていた。
夜の9時過ぎにヘッドランプをともして外に出てみると、まるで降ってくるような一面の星空。小屋からも、下のテン場からも次々と小屋前の広場へ登山者が出てきた。重かったけど、三脚を持ってきてよかった。写真左は北岳山頂から吹き出すような天の川(21時26分)。写真右は甲府盆地の明かりに照らし出された鳳凰三山(21時38分)。明かりの上に星が降っている。この日の月齢は21。もう少し気付くのが遅かったら月が出てしまって、こんなにきれいに星を見ることはできなかっただろう。明日の日の出も期待できそうだ。そういえば、イングランドの若者が礼文島へ行ったとき、朝5時過ぎに「日の出ですよ。」と旅館の女将さんに起こされた、信じられない、と言っていた。日本人はどうしてみんな日の出を見たがるのか、とも。
※昨年鳳凰三山から見た北岳〜広河内岳の稜線。今度はこちらから鳳凰三山を見ることになった。今回は撮影が主目的なので、第1日目だけがんばればあとは天候だけ心配すればいい計画で登山計画書を出している。しかし初日のしんどさはなかなかのものだった。標高差1500mの登りは、半端ではなかった。
※今日は遠望しただけの北岳バットレス。大樺沢へルートをとると、二俣で仰ぎ見ることが出来る。北岳バットレスは岩稜登攀の聖地として名高いが、バットレス中央稜の初完登に成功したのは松濤明氏である。松濤氏は1942年7月に友人と2人で、オーバーハングを含むほとんど垂直の岩場を登り、登歩渓流会『会報』1943年12月号に報告を掲載している。同報文は松濤氏が北鎌尾根−槍・穂高縦走中に遭難した後、何度か刊行された『風雪のビバーク』には収録されていないが、山と渓谷社『新編・風雪のビバーク』(2000年)に収録された。同報文は学徒動員により入営直前に書かれた、万感の思いを込めた遺書でもある。松濤氏は報文にこう記している。
・・・・「もう当分来ない」北岳の頂を辞して長い長い下降の後広河原小屋に着いた時は、もう野呂川は濃い夕闇に霞んでいた。・・・・附記・・・・「もう当分来ない」はずの頂は、実は「もう来られない頂」でした。しかし、行為する人間を離れて客観的に存在する山が何物でありましょう。私はそれをめぐる行為を通じて、北岳がほんの身近にあるのを感じます。いな穂高、槍、八ツ、谷川、その他多くの懐かしい峰々はすべて私の中にあります。それらを左右に従えて、松濤は勇躍出陣いたします。諸兄の御自愛、御健闘を祈ります。バッキャロー。(松濤)。

第2日(北岳肩ノ小屋小屋〜北岳〜中白根山〜間ノ岳〜農鳥小屋)

朝3時半に起床。外に出てみると、月明かりに鳳凰三山のシルエットが浮かんでいる。よく目をこらすと、富士山も。これは期待できそうだ。日の出までが勝負と、三脚を構える。既に下のテン場ではテントをたたみ、出発の準備が進んでいる。昨日出会った都内某大学のワンゲルだ。4時が近くなって、彼らは小屋前の広場へと上がってきた。何人?と聞くと、7人で女子部員が2名と。最近のワンゲルって、やっぱり天気図をとるの?どうだった?と聞くと、男子部員があんまりちゃんととらなかったんですが、と前置きをして、低気圧は少なかったですよ。高気圧が張り出しているみたいです、とこたえてくれた。そうかやはり今日は天気がいいんだ。新人だろうか、女子部員が「富士山は見えるでしょうか。」という。大丈夫じゃない?だって、あそこにシルエットが浮かんでいるよ、と指さす。「ほんとですか。私とても楽しみだったんです。」と答える。彼らはリーダーの合図で準備体操をして、4時少し過ぎに出発していった。「それでは、また農鳥小屋でお会いしましょう。お先に失礼します。」礼儀正しく挨拶をして出発していった彼らを見送ったが、それが全員が揃った最後の姿だとは、考えもしなかった。写真左は赤らんできた鳳凰三山(4時12分)。右は朝焼けの富士山(4時27分)。雲海が素晴らしい。
4時半を過ぎた頃から、続々と登山客が小屋から出てきた。誰もがため息をつくように、日の出を見ている(5時02分、写真左)。富士山は北岳のすぐ左側に望むことが出来る。肩ノ小屋は絶好のビューポイントだ(5時04分、写真右)。
北を見ると、昨日はガスに隠れがちだった甲斐駒ヶ岳や仙丈ガ岳が浮かぶ。写真左は仙丈ガ岳と甲斐駒ヶ岳の間に浮かぶ鋸山のシルエット。息をのむ美しさだ。と、ここまで撮影して朝食を食べに小屋へ。5時少し前から小屋のスタッフが、「今ならすぐ食べられますよ。」と呼びかけていたが、誰も中へ入ろうとしなかったのも無理ないほど素晴らしい日の出風景だった。もっとも、小屋が比較的空いていたからでもあるが。朝食を済ませて、小屋主さんにお礼を言ってから5時35分に出発。肩ノ小屋からは高度感いっぱいの直登。山頂到着は6時30分だった。山頂はすでに登山者でいっぱいだった(写真右)。ワンゲルの一行はすでに姿はなかった。日の出を山頂で見るということだから、もう出発したのだろう。昨日同行したイングランド人の単独登山者は、まだテントの中だった。起こすのもためらわれたので、そのまま出発した。
山頂には2006年に新たに修復・埋設された三等三角点が据えられている。点名は「白根岳」。山頂には大日如来が祀られているというが、目に付いたのは写真左の石仏のみ。金剛界大日如来の印相は智拳印で、最高の覚りを意味しているのに対して、こちらはどことなく愛嬌がある、なんていうと怒られるだろうか。
北を見ると、甲斐駒ヶ岳の向こうに八ヶ岳が浮かぶ。今日八ヶ岳に登っているはずのWさんも最高の天候の中、北岳を見つけていることだろう(写真左)。写真右は鳳凰三山。山容のシルエットが美しい。
さらに北西を見ると、仙丈ガ岳の左に中央アルプスが見える。よく目をこらすと、その上に乗鞍岳と御嶽山が白い頭を出している。仙丈ガ岳のはるか向こうには北アルプスも見えた。稜線を右へたどると、白馬三山も見つけることが出来た。今日、初めて登頂した白馬岳山頂で日の出を迎えたはずのCさんも、この天候に大満足間違いなし。よかった、よかった。
山頂は肩ノ小屋から登ってくる登山者と、北岳山荘から登ってくる登山者で賑わいを増し始めてきた。7時ちょうどに山頂を後にして、北岳山荘を目指して下る。急下降の登山道の両側には高山植物が鮮やかに咲いているが、登山道の下は切り立った谷地形。残念だがカメラはザックにしまい込んで、慎重に下りる。山頂から八本歯のコルへの分岐の中間に差し掛かった時、見覚えのある女の人が蒼白な顔面でしゃがみ込んでいた。今朝のワンゲル部員だ。目はうつろで、涙があふれていた。そばに付き添っている北岳山荘常駐の医局部員に聞くと滑落事故、という。すでに北岳山荘から県警へ救助要請を手配した所だ、と。谷を見下ろすと、目視で250mは滑落している様子がわかる。何か力になることがあったらやるよ、とは言ってみたものの、素人が出来る範囲を超えていた。命だけは助かってくれたら、と願ったが、この後に農鳥小屋で死亡のニュースを聞くこととなった。滑落時刻は6時50分とのことだった。救助ヘリの到着は、北岳山荘を出発して中白根山へ差し掛かったあたりだった。写真右は北岳山荘。
北岳山荘で救助の状況を聞いたり、腹ごしらえをしたり、と時間を費やした。山荘を出発したのは、8時25分だった。出発して間もなく、外国人の単独登山者に追いついた。聞くとポーランド人だとか。子どもの頃から両親に山へはよく連れて行ってもらっていたが、アルプスは初めてだとか。流暢な日本語で、聞くと来日して3年という。一緒に連れていって欲しい、という。一緒に行っては迷惑か、と聞くので、いや構わないよ。でも、僕はゆっくりだよ、と話す。聞くと今日は奈良田まで下りたいらしい。それは無理だ、大門沢泊まりだな、と話す。そんなこと話しながら、稜線漫歩の足取りはいつの間にか中白根山へ着いていた(8時59分、写真右)。そういえば、彼はどうして日本の山には若者はいないのか、と盛んに聞いてきた。うーん、難しいなあ。
中白根山で小休止してから、間ノ岳を目指す。ここも稜線漫歩。日差しは強いが、風は北西の風で、からっとしていて心地よい。写真左はケルンから間ノ岳を見る(9時06分、写真左)。振り返ると、中白根山越しに北岳が見える(9時31分、写真右)。
間ノ岳への登りを、展望を楽しみながら登る。山頂手前には雪渓が残っていて、雪渓横では登山者がくつろいでいた(10時14分、写真左)。10時18分、あっけなく山頂到着。山頂は広々としていて、たくさんの登山者が思い思いの時を過ごしていた(写真右)。多くの人は熊の平小屋へ下るらしい。遠くに甲をかぶせたような塩見岳もはっきりと見ることができる。
振り返ると、北岳が雲海に浮かんでいた(写真左)。のんびりと時間を過ごしてから、間ノ岳を下ることにする。主稜線の東側からはひっきりなしにガスが吹き上がっているが、北西の乾いた風は依然として強く吹いている。ちょうど稜線を分ける形だ。鞍部に建つ農鳥小屋を挟んで、農鳥岳方面を見る(写真右)。
二重山稜の様子を観察したり、ザラザラの道を滑らないように気をつけてひたすら下りると、農鳥小屋へは11時半に着いてしまった。このまま大門沢小屋まで行けそうな時間だが、それではもったいない。登山計画書通りにと、贅沢な時間を過ごすことにする。ポーランド人の男性は、小屋主さんに早く出ないと雷が来る、とせかされてそこそこに出発した。無事に着けるか心配だ。小屋に着いた時は、肩ノ小屋を先発した福岡から来たという夫婦連れが先着していた。小屋のご主人に予約してあることを告げると、3番目の布団を指定された。ザックを置いて、コップを持ってサービスのコーヒーをいただく。熱いコーヒーは大変美味しかった。15分ぐらい下りると、美味しい水が豊富に出る水場があるよ、と小屋主さんに教えていただく。そこで3人して出かけることにした。この坂を登り返すのか、などと帰りを心配したが、いやなかなかいい水場だった(写真左)。水は豊富だし、水はうまい。ペットボトルに汲んで、一気飲み。ついでに、頭から水を浴びて洗い、服も洗濯。上半身裸になって体を拭くと、身も心もさわやかになった。帰りはお花畑に花を愛でながら、のんびり登ると、汗をかくこともなく実に心地よいひとときだった。この往復30分をいやがる登山客が多い、こんなんで山へ来るかねぇ、とは小屋主さんの弁。悪天候ならいざ知らず、たしかにそれはもったいない話だ。小屋へ戻って、ビールを片手に見上げると、夏の雲が輝いていた(写真右)。
※北岳で滑落した男子学生は、結局は助からなかった。現場を通ってきた登山者の多くが、救助ヘリを振り返っては心配そうに見ていた。リーダーの指示のもとに、しっかり準備体操をしていた姿。リーダーの指示でザックを担いだ面々。礼儀正しく挨拶して出発していった朝の様子を、よく覚えている。滑落現場は、確かに危険な所であり、西側にせよ東側にせよ、滑落したら助からない所だと思われた。しかし、一般道であり、危険を示すトラロープも張られていた。そこで何故事故は起きたのか。今、原因を語る資料を何も持ってはいない。たぶん『山と渓谷』で事故報告がされることになるだろうが、決して他人事ではない。それだは確かだ。ご冥福をお祈りします。
※農鳥小屋に4時過ぎに着いた中高年の女性のグループがいた。到着したグループに小屋主さんが、「何でこんな時間に着くの。ラジオは持ってるの?ちゃんとアポはとったの?予約の連絡のことだよ。」と矢継ぎ早に聞いていた。南アルプスの稜線の怖さは、過去の落雷事故を見てもわかるはずだ。稜線には落雷事故で亡くなった登山者の慰霊碑が立てられていたり、避雷針があったりと、その様子は他の山域とは少し異なっている。山小屋と山小屋の距離が長い南アルプスは、稜線を歩く距離も長い。いくら森林限界が高いとはいえ、稜線で発雷したらどういうことになるか。これまで御嶽山、針ノ木雪渓、白馬大雪渓と何度も雷の怖さを体験してきただけに、ラジオも持つことがいかに大切か、そして4時過ぎでも雷にあうことなく到着できたということがどれほど幸運なことかは分かるつもりだ。小屋主さんはこのことを言っていたのだった。もし予約の連絡をしたら、到着予定を聞いただろう。それが無理な予定であれば、助言もできたかもしれない。しかし彼女たちにどれぐらい理解されたのか、聞いていてよく分からなかった。何かが変だ。
※もう一つこの日驚いたこと。北岳山荘を経て中白根山を登っていると、夫婦らしい2人連れの登山者が下りてきた。間ノ岳のピストンですかと聞くと、北岳だと思って登ったら違っていたから戻ってきたと、とんでもないことを話し始めた。何も言葉を返すことができなかった。ちなみにこの山域は指導標もしっかりしているし、朝の内は視程も長く、絶好の山日よりだったのだった。なぜこんなことになるのか、その理由もよくわからない。
※ポーランド人の登山者は、結局この日大門沢小屋に泊まったことを翌日知った。しかも、大門沢小屋の小屋主さんによると、6時過ぎに到着したとか。まあ、着けてよかった。

第3日(農鳥小屋〜西農鳥岳〜農鳥岳〜大門沢下降点〜広河内岳〜大門沢下降点〜大門沢小屋)

この日は4時20分頃から朝食。朝食は昨日の到着順となるため、一番早いグループとなった。食事を終えて外に出ると、空が白み始めていた。あわてて三脚を構える。写真左は4時39分。写真右は4時44分の撮影。昨日よりも雲海が低くて、声に表すことが出来ないほど美しかった。
日が昇り始め、西農鳥岳を赤く照らし始めた(4時59分、写真左)。富士山は西農鳥岳の稜線すぐ近くにある。北岳肩ノ小屋から見た富士山と比べると、随分大きくなった(5時03分、写真右)。
身支度を調えて、小屋主さんに挨拶してから5時10分に出発。今日は奈良田まで下りずに、広河内岳へ寄り道する計画。じっくりと写真を撮りながらの稜線漫歩である。西農鳥岳への急登を登り切って、主稜線に出ると、目の前に雷鳥が1羽いた(5時42分、写真左)。南アルプス山域では雷鳥は減少を続けている、という。今回の山行で唯一の遭遇だった。写真右は西農鳥岳から見た農鳥岳。平坦に見える山頂の上に、富士山を戴いている(5時48分)。ここは定番の撮影ポイント。
目を南にやると、甲を被ったような塩見岳とその左に荒川三山が姿を見せている(5時49分、写真左)。奥深い山域だ。振り返ると、北岳が間ノ岳に隠れようとしていた(5時52分、写真右)。鞍部に農鳥小屋が姿を見せている。遠くは八ヶ岳。
農鳥岳が近くなった。農鳥岳山頂から頭を出した富士山は、なかなかの美しさ(5時57分、写真左)。西農鳥岳から農鳥岳への登山道は、岩場の登下降となる。三点支持を守って、慎重に歩いていくと、間もなく山頂に着いた。富士山が他の山々を従えて、雲海から頭を出していた(6時34分、写真右)。
山頂で360度の大展望を楽しんでいると、少しずつ農鳥小屋からの登山者がやってきた。みんなより近くなった富士山に大満足の様子だ。さて、山頂の三角点近くには詩人である大町桂月の歌碑がある。写真右の岩陰になっている、黒い歌碑がそれだ。大町桂月は1924年にここに登った時、「酒のみて 高根の上に吐く息は ちりて下界の雨となるらん」と詠んだという。酒と旅が好きだったという。歌碑は1955年頃ここに地元観光協会と山岳会がかつぎ上げたもの、という。大町桂月は1869年に高知で生まれ、1925年に亡くなっている。農鳥岳へ登ったのは、亡くなる前の年のことだった。墓は雑司ヶ谷霊園にある。
眺望の美しさに感嘆の声を上げながら、大門沢下降点に下る。稜線が広くて、ガスに巻かれることの無いように、下降点には立派な指導標が立てられている(8時01分、写真左)。鐘も付けられているので、盛大に鳴らしてみる。登山者はここで大休止の後に一気に急下降の道をとることになるが、今日はこの先の広河内岳まで足を伸ばすという計画。降雨の心配もなさそうなので、余分な荷物は不要と、ザックをここにデポしておくこととする。ただし、遭難者と間違えられないように「ソーナンではありません」と書いた荷札を付けておいた。水とカメラだけ持って、広河内岳へ。道やマークはしっかりしているが、誰も来ない。ゴミも落ちていることはなく、ここまで足を伸ばす人が少ないことを物語っていた。広河内岳へはいくつかの小ピークを越えていく(写真右)。
大展望を心から楽しみながら歩くと、一息で山頂に着いた(8時30分、写真左)。富士山もしっかり見えている。富士山手前の尾根の向こうが大門沢(写真右)。
ここまで来ると、塩見岳をぐっと近くに見ることが出来る。写真左の中央が塩見岳。その左に荒川三山とその間に赤石岳が頭を出している。一番左のピークは千枚岳。存分に眺望を楽しんでから、下降点に戻った。もう人は誰もいなかった。ここからは急下降となるので、カメラをザックにしまい込む。日差しが強く、風もないため閉口するが、どこまでも富士山に向かって一直線に伸びている大門沢は、ずっと富士山を見ながら下ることができる道だ。やがて樹林帯に入ると、木々が日差しを和らげてくれた。ここを下った登山者は、大変な道だというが、ドンドコ沢の登山道よりもずっと快適な道に思えたのだった。所々に付けられたプレートには現在の標高が記されていて、これと高度計を見比べながらひたすら下る。急なだけにどんどん標高が下がっていく。勾配が緩やかになると、沢筋となり、冷たい水で顔を洗ってはひたすら下りる。大門沢小屋に着いたのは、11時半だった。奈良田まで下りても十分すぎる程時間はあるが、明朝ここのテン場から富士山を撮ることと、奈良田の白籏史朗氏の写真記念館を見学すると決めているので、腰を落ち着けることにする。あいにくガスが出てきたので、なんともしようがない。あとはビール三昧。15時から使えるコインシャワーで汗を流して、ついでに服も洗って、その後は再びビールで至福の時を過ごした。大門沢小屋は沢筋だけあって水が豊富。この水で冷やしたビールは、これがまた丁度飲み頃。小屋主さんにいろいろなお話を伺いながら、気がつくと何本もビールを飲んでいた。
※大門沢下降点に設置されている指導標、というより櫓はさび付いていなかった。手入れが行き届いている感じだったが、一体誰が世話をしておられるのか不思議だった。大門沢小屋に到着した時、奈良田へ下りる途中にくつろぐ登山者の姿に混じって、4人がビールを傾けていた。銀嶺山岳会の人で、聞くと会で下降点の櫓のペンキ塗りを10年に一度やっているとのこと。明日はペンキを塗りに行って、乾く間に農鳥岳まで登ってくる、と話しておられた。その中の1人は富士山の写真を撮りに、1時に出発し、他の3名は3時に出るとか。まさか、と思っていたら本当に1時と3時に出発していった。頭が下がる思いだ。大門沢ルートの急登を、登りに使うというだけで驚きだが、ペンキ塗りとなるとこの道しかないのも事実。登山道を維持するに当たって、さまざまな人の努力があることを忘れてはならない、と強く思った。
※大門沢小屋からは、意外なことに富士山を真正面に見ることが出来る。南アルプスの主稜線と比べて標高が低いだけに、丸山をはじめとするいくつかの折り重なる稜線を従えた富士山だ。小屋主さんが台風通過直後に携帯で撮影された富士山を拝見したが、思わず息をのむほど美しかった。一瞬携帯であることを忘れるほど美しいシルエットは、ここにおられるから撮すことが出来るもの。いい画像を見せていただき、感謝。

第4日(大門沢小屋〜奈良田)

朝、4時前に三脚とカメラを持って外に出た。まだ暗くてよくわからない。富士山は見えるのだろうか。心配そうにしていると、小屋主さんが「富士山、見えてますよ。」と言われる。目をこらすと、確かにシルエットが浮かびかかっていた。何という幸運。これで今回の山行すべてのビューポイントで富士山を撮ることができたことになる。次第に明るくなっていく東の空をファインダーでのぞきながら、夢中でシャッターを切った。手前の累乗たる山並みと、空に浮かぶ雲のシルエットが何とも言えない雰囲気を出していた(4時29分、写真左)。朝食をいただき、小屋主さんにお礼を述べてから、5時半に小屋を出発した。何度か徒渉を繰り返して、高巻きの道になると、樹林の美しい緑の中を気持ちよく歩くことが出来た。ところどころ急下降があったが、一見してこの道が登山道としてつけられたものではないことがわかった。よく見ると、苔むした石仏も置かれていた(写真右)。この道はかつて奈良田の人々により、焼き畑耕作のために営まれた道なのだった。
7時10分、取水堰堤に出て、吊り橋を渡った(写真左)。この後、再び吊り橋を渡り返し、建設中の砂防堰堤直下の迂回路を分かり返すと、林道に出た(7時30分)。大門沢小屋を出てからちようど2時間が経過していた。奈良田の民宿を予約した場合は、林道終点まで車で迎えに来てもらえるとか。昨日下った人のほとんどが、奈良田泊まりだった。ここから延々と林道を歩いて、発電所を通り、さらに歩いて奈良田へ着いたのがちょうど8時。8時30分から営業が始まる奈良田温泉「女帝の湯」につかって、のんびり過ごす。9時40分発のバスは最初から見送り。次の身延駅行は13時50分発。たっぷりと空いた時間を、白籏史朗氏の写真記念館と早川町歴史民俗資料館をゆっくり見学した。白籏史朗氏の大伸ばしされた写真は圧巻だった。
※奈良田にはかねてから強い関心を持っていた。初めて「奈良田」の名を耳にしたのは、もう30年近く前のことだ。民俗学により深い関心を寄せていたならば、もっと早く知っただろうが、僕は言語を通して「奈良田」を知ったのだった。僕は当時、今は廃村となり水没した徳山村に暮らしていた。その徳山村戸入に特殊促音が残っていることを知った。と、同時に特殊促音は八丈島、伊豆の石廊崎、山梨県の奈良田、長野県の秋山郷、大井川上流の井川にも残っていて、戸入と合わせて言語島として共通するアクセントがあるというものだった(根尾弥七・増山たづ子・大牧冨士夫・久瀬川忠・篠田通弘「徳山村の歴史と文化」『ゆるえ』創刊号掲載、徳山村の歴史を語る会、1982年)。以来、訪ねなければならない地の一つとしてずっと意識してきた。今回このような形で初めて訪れることになったのだが、感慨深いものがあった。
 次に奈良田を知ったのは、姫田忠義氏が主宰する民族文化映像研究所が記録した映像、「奈良田の焼き畑」だった。これは早川町教育委員会の依頼により、既に行われなくなっていた焼き畑の民俗を奈良田の人々によって忠実に再現されたのを、1年間通して同研究所が映像化したものだった。これも同研究所から毎号送っていただく『民映研通信』を通してその存在を知るだけだったが、今回、映像のすべてを早川町歴史民俗資料館で観ることができた。映像は生き生きと山に生きる奈良田の人々を映し出していた。奈良田の焼き畑は、ただ単に食料を生産するだけでなく、山という大地から衣食住のすべてをいただくという、大きな精神的循環そのものであることが伝わってきた。この記録映像の全編を観ることが出来たのは望外の幸せだった。今度はしっかりと勉強しに来なければ、と強い思いを抱いた。
※資料館を見学し終わって、あと40分ぐらいかなと温泉前でバスの時刻を待っていると、疲れ切った様子で中高年の女性2人連れが到着した。同じくバスを待つ女性の下山者が、「姿が見えないからどうされたかと心配していました。」と話しかけると、その2人は、大門沢小屋までたどり着けなくて沢で野宿をして大変だったと話し始めた。ビニールを下に敷いて合羽を着て寝たとか。ツェルトは持っておられなかったんですかと聞くと、そんな重い物は持ち歩かない、とつっけんどんな返事が返ってきた。思わず居合わせた他の登山者と顔を見合わせてしまった。僕が携行しているツェルトは重さ250グラム。500ミリグラムのペットボトルと比べても半分。これまでに一度も使ったことはないが、使わないに越したことはない、と割り切ってザックに放り込んでいる。もし昨晩雨が降ってきたら、もし昨晩が一昨晩のように北風が強い寒い夜だったら、2人は急激に体温を奪われたに違いない。命より重いものなど、どこにもないと思うのだが。バスに乗ってからも単独のテント泊の登山者といろいろ話をした。ひょっとしたらあの2人、ヘッドランプを持っていなかったんじゃないかな、とも。どんなに遅くなっても、ヘッドランプさえあれば歩くことが出来るし、ましてや下降点から大門沢小屋までは白峰三山のメインストリート。指導標もマークもしっかりつけられている。迷い込む心配はない。暗くなって歩けなくなったんじゃないかな、との意見も出た。真相の程はわからないが、最後まで驚きの連続だった山行は、4時間かけて甲府へ戻るバスと電車の旅で終わった。