竜王山(585.73m)
2007年5月28日
奈良県天理市長岳寺より


等高線は20m。スケールの単位はm。

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早朝自宅を出て、東名阪自動車道から名阪国道を経て天理へ。久しぶりの天理。迷うこともなく、黒塚古墳へ到着。今日は月曜日とあって展示館は休館。古墳を一通り見学してから、天理市トレイルセンター(写真左)へ。まだ新しい、山辺の道ハイカーたちの休憩施設だが、周辺遺跡の遺物も若干展示されていて、山辺の道の歴史を知ることが出来るようになっている。ここで断って駐車場へ車をとめさせていただく。今日の目当ては竜王山。昔から、本当に昔から気になっていた竜山である。山頂には南城と北城の2つの遺構群からなる、竜王山城跡がある。所謂別城一郭の構えをなす、十市氏の築城になる中世城郭である。トレイルセンターは、大和古墳群のうちの狭義の柳本古墳群の真っ只中にある。すぐ横には全長242mの前方後円墳、行燈山古墳。崇神天皇陵と宮内庁は呼ぶが、根拠はない。そのすぐ山手には、前方後円墳の後円部に方形の造出が付いた、双方中円墳の櫛山古墳。全長150mの大形前方後円墳だが、大和古墳群の中にあっては第2グループの規模となってしまう。さらに南には全長約300mの渋谷向山古墳(宮内庁は景行天皇陵とする)がある。行燈山・渋谷向山の両古墳は明らかに大王墓であり、この2基を盟主とする柳本古墳群は4世紀を中心とする古墳時代前期の巨大古墳群である。圧倒されながら、長岳寺横から登山道へ入る。石仏が見送ってくれるこの道は、古くからの峠道であることを教えてくれる(写真右)。トレイルセンター出発は10時50分。
登山道は堀割状で、よく踏まれている(写真左)。木漏れ日がまぶしいが、からっとした暑さだ。ひと登りすると、休憩ベンチへ着いた(11時20分、写真右)。ここでひと休み。
眺望は得られないが、不動明王の石仏を眺めたり、ホウノキの葉を見たりして歩く。ほとんどが花崗岩の岩盤で、所々掘り割られている。急登にはロープが下がっている。
ひとしきり汗を流すと、尾根に沿った緩やかな勾配となる。左の尾根上には、甘いが明らかな削平地の存在がうかがえる。気になりながら、時折登山道を外れて上っていくと、目の前に林道が現れて、何と車もとまっている(12時14分、写真左)。ここから山頂の南城は右へ林道を歩くことになるが、まずは左へ。林道を歩くのもおもしろくないので、尾根に沿って付けられた散策路をたどる。この辺りは竜王山城の北城と南城の間に相当するが、明確な遺構は認められない。写真右は「馬池」。北城の水の手で、今もなお水がわき出ている。また、「馬池」手前には細い土橋がある。土橋両端は箱堀となっていて、北城の搦め手方向の堅固な防御を担っている。
「馬池」から搦め手虎口へ直接入ることが出来るが、林道に沿って大手筋へ向かう。先ほどの舗装された林道から派生する、未舗装の林道だが、明らかに曲輪群を破壊している。奈良盆地側には竪堀群を見下ろしながら北城の西側へ出た。所々には北城に伴うと思われる石垣も認められるが、基本的には土造りの城である。急登を登って、中心の曲輪に張り付く曲輪に出た(写真左)。ここは北浦家蔵『南北山城絵図』には「時ノ丸」と記されている。削平は十分だが、曲輪端部に土塁は持っていない。「時ノ丸」から中心の曲輪へ登って振り返ると、眼下に奈良盆地が広がっていた(写真右)。向こうに左から金剛山、葛城山、右端が二上山。
望遠で行燈山古墳を見下ろす(写真左)。陪怩フアンド山古墳、南アンド山古墳なども手に取るようにわかる。写真右は北城中心の曲輪の内部。礎石らしき石材が散乱していて、礎石建物の存在がうかがわれる。また、全周こそしないが土塁を「時ノ丸」側に重点的に配置して、敵に備えている。
写真左は中心の曲輪と「辰巳ノ櫓」(『南北山城絵図』による)の間の大堀切。中心の曲輪を見上げては、その規模に圧倒される。ここから搦め手方向の「南虎口」へ下る。南虎口は左右の土塁が少しずらして配置される、「食い違い土塁」となっている。土塁の中央を切っただけで、まっすぐ侵入することの出来る「平虎口」と比べて、防御性は高い。さらに食い違い虎口を入ると、その前方にもう一つ食い違い土塁が置かれていて、その間が窪地となっている。つまり、二重に防御性を高めた、堅固な虎口構造をとっている。写真右は南虎口の食い違い土塁。写真ではわかりにくいのが残念。
さて北城の規模に驚愕した後は、林道を歩いて先ほどの峠まで戻り、そこから南城、つまり山頂へと林道を歩く。写真左は途中の田町竜王社。水の手である。さらに進んで、南城への登城路を登る。眼下の眺望は極めて良い(写真右)。
南城は北城と異なる構造をとっている。北城が中心の曲輪から派生する尾根に削平地を連ねる構造をとるのに対して、南城は細長い主稜線の最高点に中心の曲輪を、そこに至る尾根上を階段状に削平する連郭式山城の構造を持つ。所々尾根を堀切で遮断している。写真左は尾根上を削平して築かれた曲輪。中心の曲輪に向かって、下方のの曲輪から直線的に登る石段が設けられている(写真右)。これなども理解に苦しむが、廃城後に何らかの施設(例えば神社など)が設けられた記録と形跡がないとすれば、少なくとも廃城段階の最終遺構であると考えざるを得ない。
写真左は南城中心の曲輪内部。竜王山の山頂だ。二等三角点が埋設されていて、国土地理院の『点の記』によると、所在地は奈良県天理市大字田町字竜王山826番地となっている。
南城の中心の曲輪は、北城の中心の曲輪よりも標高にして60m程も高い。その分眺望は抜群である。また山頂からは北城を見下ろす位置となることも重要である。つまり、南城は北城に先立って築かれたことは確実で、連郭式山城という比較的古い城の構造もこれを裏付けている。考えてみれば、南城は本来は「詰めの城」として築かれたはずである。その場合、麓に常時の「館」があり、山上に「詰めの城」という構造をとる。しかし、それにしては標高差がありすぎる。そもそも今日登山路として登ってきた道は藤井へ抜ける古い峠道で、おそらくはこの道を押さえる目的で先に南城が築かれたと考えるのが妥当だろう。その上で、南城が手狭で大規模な軍事行動に十分対応しきれないため、後に北城が築かれたと考えられる。南城は峠を押さえる要所であると同時に、奈良盆地の動向の把握にすぐれていたため、北城と合わせて機能したのではなかろうか。そんなことを考えると、時間の経つのもあっという間である。今日は平日とあって誰とも出会わないかと思ったら、山頂で2人連れと、下山途中にやはりもう2人連れと出会った。見知らぬ人でもついつい話し込んでしまうのは、平日ならでは、か。それにしても下山途中で出会った人に突然、「あなたは邪馬台国は畿内だと思うか、北九州だと思うか」などと聞かれて、参ってしまった。話をし始めると長くなるかなぁ、と心配しながら話し始めたが、やはり長くなってしまった。幸いの単独行、眺望を楽しみながらひとしきり質問に答えて時間を過ごした。そんな話が自然に出る所が、この辺りの山なのかもしれない。考えてみれば、すごい話だ。写真右は柳本竜王社。「毒蛇注意」の看板には笑ってしまったが、結構恐ろしげだった。南城最大の水の手である。
下山路は長岳寺奥の院へ立ち寄る。写真左は奥の院にて。この辺りから、竜王山古墳群の分布域に入る。写真右は開口した横穴式石室。この古墳は墳丘を持つ円墳だが、花崗岩をくり抜いた横穴古墳も多数作られている。竜王山古墳群は、分布調査によると円墳300基以上、横穴古墳300基以上、合計600基以上とされる、畿内最大の後期群集墳である。
登山道をさらに下ると、道の両側に古墳がびっしり分布している。中には横穴式石室の石材が抜き取られたものもあるが、遺存状態は総じて極めて良い。写真左は円墳。石室の石材が露出している。写真からでも円墳であることがよくわかると思う。登山道を外れて、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりして見学していると、いくら時間があっても足りない。群集墳は6世紀になってまず横穴式石室を持つ円墳が作られ始め、続いて横穴古墳が少なくとも7世紀にかけて作られたと考えられている。群集墳の造営が終わった後も、横穴への追葬が奈良・平安時代にも行われたことが知られている。それにしても一体何故、このような大群衆墳がここに築かれたのだろうか。明らかなことは、竜王山古墳群が築かれ始めた頃には、かつて2基の大王墓をも擁した柳本古墳群の凋落が著しかったことである。写真右は堀越しに見た櫛山古墳。トレイルセンターへ着いたのが、15時41分だった。うれしいことにトレイルセンターには温水シャワーがある。100円で6分間。頼むと、今年初めての使用だとか。頭まで洗って、気持ちよく一日の汗を流した。
※ここから先は、ちょっと山から離れた話。
【柳本古墳群と竜王山古墳群】竜王山の名を始めて知ったのは1973年、私が高校3年生のことだった。奈良県樫原考古学研究所から送られてきた『考古学論攷』第2冊に収録された白石太一郎氏の論文「大型古墳と群集墳−群集墳の形成と同族系譜の成立−」に接したことによる。
 それまで同氏の論文「畿内の後期大型群集墳に関する一試考」(『古代学研究』第42、43合併号掲載、1966年)を「一試考」と、「畿内における大型古墳群の消長」(『考古学研究』第16巻第1号掲載、1969年)を「消長」と略して呼び、共にむさぼるようにノートをとって読んだことを覚えている。前者は精力的かつ詳細な分布調査と横穴式石室の略測に基づいて、大型群集墳の分布からその性格を分析した力作。地域に根ざした考古学研究を、古墳時代に絞って試行していた私にとってバイブルのような論文だった。後者は「御陵墓」として宮内庁が管轄し、考古学的な調査の一切を排除している大型古墳の分布する古市・百舌鳥古墳群などを、微地形の復元から古墳の選地順位を推定し、大胆な編年案を提示したものだった。考古学は歴史学でなければならない、という氏の基本的な姿勢が貫かれた論文だった。
 「一試行」「消長」に続いて氏が発表したのが、冒頭に挙げた論文「大型古墳と群集墳−群集墳の形成と同族系譜の成立−」だった。氏は畿内全域から200基を越す群集墳を5群と分析し、そのうち最大のものとして竜王山古墳群を挙げた。氏はこれらの群集墳の分布の特徴として(1)群内に大型古墳を持たない、(2)群の周辺に大型前方後円墳が存在することが多い、と指摘した。大型前方後円墳は古墳時代前期、群集墳は後期として別のものとして扱われてきた両者を、結びつけて分析し、これを「擬制的な同族関係」の成立と呼んだ。つまり、竜王山古墳群は柳本古墳群の行燈山古墳、渋谷向山古墳などの「過去の大王とそれとの擬制的同族関係を設定された諸集団」と想定した。氏の論文を一読した時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。
 あれから35年。竜王山古墳群の発掘調査はまだ手が付けられてはいない。だが、それだけに良好な状態で今日までその姿をとどめていた。
 一方大和古墳群は、橿原考古学研究所を中心とする継続的な学術調査によって、様々な姿を私たちに教えてくれるようになった。黒塚古墳から三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面の計34面が出土したことは、まだ記憶に新しい。これについては、また機会を改めて述べたいと思う。
 初めて見学した竜王山古墳群は、35年間イメージだけで抱いていたその姿を、具体的な姿として強烈な印象を与えてくれたのだった。もっと早く訪れるべきだった、と思うばかりだった。

【竜王山城跡について】大和を代表する中世城郭として竜王山城跡を知ったのは、徳山村で徳山城跡の実測調査を行った後のことである。今回初めて竜王山城跡を一部分ではあるが見学する機会を得たので、ここに若干記して備忘としておきたい。
 竜王山城跡については、村田修三氏による詳細な踏査に基づく縄張図が公表されている(村田修三『竜王山城跡調査概要』天理市教育委員会、1981年)。氏による縄張図はそのまま遺跡の案内板にも利用され、城跡を訪れる見学者が目にすることが出来るようになっている。又、遺構ごとに立つ説明板も同報告に拠ったものとなっている。
 さて、竜王山城跡が大和を代表する山城と言われる所以は、南城・北城と2つの峰にまたがる城域を合わせると、大和最大となるからである。また天正6年(1578)1月、織田信長の命により破却され、近世城郭への大改修が行われることなく中世城郭の姿を今日までとどめていることも重要である。
 竜王山城跡の概要については、上の見学記にとりとめなく記し、また大手筋を始めとして全域の見学を行っていないので深く記すことは控えたいと思う。ここでは、竜王山城をめぐる歴史的な動向を前掲報告に拠って簡単に記しておきたい。
 まず築城者は十市氏である。十市氏は大和において「筒井・越智の両雄と覇を競いあった有力な国人」(前掲報告)である。しかし十市氏は私たちにひいき目に見てもなじみが深い、とは言えない。その十市氏が諸大名の居城と比べても引けを取らない山城を築いていたことに、まず驚かざるを得ない。
 十市氏は竜王山の西南にある十市郡十市を拠点とする国人である。室町から戦国時代にかけて大和で覇を競った五大豪族の一つとして知られている。築城の契機ははっきりしていないが、応仁・文明の乱の頃に長岳寺(釜口)からの峠道を押さえる砦が、後の南城に築かれていた可能性が考えられている。記録に登場するのは、永正4年(1507)細川軍の大和乱入に対して一国一揆が起きたとき、「釜口ノ上」他で「貝ヲ吹、時ノ声を上震動了」(『多門院日記』永正4年11月13日)とその様子が記されている。竜王山城に先立つ砦が築かれていたことがわかる。十市氏がこの砦を修築し、竜王山城としていったのは天文年間であったと考えられている。とりわけ十市遠忠の頃最も発達し、天文11年(1542)には筒井氏をも凌駕する大勢力となった。この頃、城下も整備されていったと考えられている。しかし次の遠勝の時代には勢力は衰え、筒井氏に従うようになった。永禄2年(1559)には松永久秀が大和に侵入して、翌3年には竜王山城は松永方の手に落ちている。十市氏は筒井氏と松永氏の間を揺れ動くことになり、永禄11年には松永方の秋山氏の侵入に対して、十市遠勝はほとんど抵抗することもなくあっけなく竜王山城を明け渡している。その後松永方の属城の地位にあったが、天正5年織田信長に反旗を翻した松永久秀は信貴山城で滅びた。竜王山城は翌年1月に信長の命により破却され、その歴史を閉じている。
 以上が竜王山城の概要である。さて、現在見ることが出来るのは、松永氏の属城であった最終段階のものである。しかしどの部分が十市氏の竜王山城で、どの部分が松永氏による改修であるかは、今後の詳細な調査を待つ他はない。唯一、南城について休憩施設建設の計画が持ち上がり、中心の曲輪に近い、尾根上に築かれた曲輪についてのみ発掘調査が行われている(泉武「竜王山城南城跡」『天理市埋蔵文化財調査概報 平成8、9年度』所収、2003年、天理市教育委員会)。その概要について、同概報に基づいて次に触れたい。ちなみに調査の結果、曲輪全面に遺構が検出され、計画は中止されている。
 調査は1997年に行われた。地点は、南城の中心の曲輪から一段下がった曲輪である。調査の結果、礎石建物跡、庭園と考えられる石組み遺構、石段などが検出され、丸瓦、鉄角釘、それに少量の土器片が出土している。礎石建物跡は桁行7間、梁間3間の長方形のもので、外側の壁廻りには礎石と礎石の中間にも礎石が配されていて、桁行14間と細かな柱構成をとっている。礎石間は心々で1.2mとなる。報告者は床張りの大広間を想定している。また石組遺構は礎石建物の南側中央に位置し、石組庭園と考えられている。遺物の中で注目されるのは、丸瓦である。平瓦がほとんど見られないのは、破却に際して持ち去られたからだろう。丸瓦はその技法から織豊期城郭に伴う瓦以前のものであると観察され、礎石建物が山城において採用されるのは16世紀後半になってからと考えられていることより、報告者は永禄3年(1560)頃の松永久秀によるものとしている。調査概報を見る限りでは、十市氏段階にまで遡る遺構を少なくとも調査地点において見いだすことは困難である。
 以上によると、松永久秀段階の竜王山城南城は、織豊系城郭以前に既に瓦葺きを伴った本格的な城郭建築を持っていたということになる。

 竜王山古墳群と竜王山城跡について、やや長く記した。あくまでも見学者の備忘であり、わかりにくいことをお断りする。
 もし竜王山を訪れることがあったら、竜王山に歴史をたずねてみてほしい。そんな魅力をまとった山、それが竜王山である。