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近江富士として知られている三上山は、いつもその傍らを通り抜けるだけだった。ここだけを登りにやって来るのは遠すぎると二の足を踏んでいたが、今日は午後から隣の栗東市出土文化財センターで開かれる報告会の案内をもらったので、それをメインとして午前中に歩いてしまおうという計算。栗東インターで高速を下りて少し戻って、野洲川と朝日をあびる三上山を撮影(写真左)。近江富士と呼ばれるだけある均整のとれた山容だ。三上山山頂には御上神社の奥の院がある。まずは御上神社を見学(写真右)。 |
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御上神社は近江の古社で、『古事記』開化天皇の段に「近淡海之御上祝以伊都久天之御影神(近つ淡海の御上祝(はふり)がもちいつく天之御影神(あめのみかげのかみ)」とあり、三上山を神体山とする信仰の起源が古いことを教えてくれる。祭神は天之御影神。まだ朝早いせいか、人影は見られない。写真左は本殿。国宝である。桁行3間、梁間3間の檜皮葺入母屋造。建立年代は鎌倉時代後期で、入母屋造の神社建築で現存するものとしては最古。神社建築といっても、仏堂に近い。写真右は縁束を受ける礎石。反花の蓮華文を刻んでいる。縁や向拝などは建武4年(1337)に修理されたことが、礎石に刻まれている。 |
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写真左は檜皮葺入母屋造の楼門。鎌倉時代の建立で、国重文。御上神社はなかなか見学の価値があり、これまでの不勉強を反省した。しばらく境内を見学した後、ようやく表登山口にたどりついたのが9時30分。この辺りにはまだ猪が出るらしい(写真右)。裏登山道の方が一般向きとされているが、やはり表参道を登ることにした。 |
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歩きやすい石の階段(写真左)を歩いていく。辺りには削平地がいくつもあり、かつての面影を偲ぶことが出来る。しばらく登ると、平坦地に出た(地形図で図示した最初のドット)。今は山麓に移転した妙見堂跡である(写真右)。ここから表登山道は急登に変わる。 |
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円錐形の山容の等高線に直交して登山道がつけられてることから、いかに急登かを知ることが出来る。写真左が割石と呼ばれるチャートの露頭(地形図で図示した二番目のドット)。三上山はチャートの岩塊のような山で、古琵琶湖時代には島であったと考えられている。その残丘というわけだが、残丘にしては急峻だ。登拝者のために、岩盤にはステップが刻まれていて、現在では鉄製の手すりも設けられている(写真右)。それでもこの辺りでは手軽に登る山らしく、すれ違った何人かの人はほとんどスニーカーで、何も持たない身軽な格好だった。 |
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10時18分、山頂に着く。あいにく霞んでいて眺望はきかなかったのが残念(写真左)。写真右が磐座。磐座を前にして、奥宮が祀られている。 |
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写真左中央が奥宮。『三上古跡図』には山頂は祠が一つ描かれていて、「大嶽八大龍王」と記されている。現在はその左右に東西の龍王の祠がある。数人が裏登山道から登ってくるだけの、静かな山だった。大休止後、花緑公園への下山路を下る。等高線に直交して下る健脚向コースと、大きく蛇行して下る一般向コースに分かれているが、どちらをたどっても同じ所へ下りる。午後の日程も気になるので、健脚向コースで一気に下りる。やがて、花緑公園登山口と中段の道北回り・北尾根縦走路との分岐を後者にとる。等高線に沿ってつけられた、散策路という感じだ(10時57分、写真右)。しばらく歩くと、中段の道と北尾根縦走路との分岐に出るので、ここを後者にとる。 |
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北尾根縦走路は小さなアップダウンを繰り返すが、よく踏まれている(写真左)。途中、花緑公園への下山路がいくつも付けられていて、いろいろな散策ルートがあるらしい。しかし、北尾縦走路に入ってからというもの、全く人と出会わなくなった。チャートの露頭はいつの間にか姿を消して、ざらざらとした花崗岩の風化土壌が続く。時として滑りやすい花崗岩の岩盤を歩くという変化が楽しい。写真右は妙光寺山の遠望。やがて東光寺越の鞍部を過ぎる。東光寺は現存しないが、字名にその名を残している。嘉吉元年(1441)の『興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうしょ)』には「東光教寺 在同州三上郷三上大寺内」とあり、「本尊薬師仏也」と記されている。僧房は19宇と記している。 |
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縦走路をアップダウンを繰り返しながら歩くと、小ピークに突然巨岩が現れた(11時08分、写真左)。ここをくぐり抜ける形となる。初めは山岳信仰に関係する潜り戸かと思ったが、どうやら崩壊した横穴式石室の一部らしい。マウンドは完全に消失し、付近に天井石が転落している。教の山行では、この他も何基かの古墳を確認することとなった。ザレ場にかかるロープをたぐりながらピークに登り、しばらく下ると下山路と妙光寺山との分岐の鞍部に出た。まずは妙光寺山山頂へ(11時50分、写真右)。山頂はフラットで、人為的な作事が認められた。先の『興福寺官務牒疏』には妙光寺について「三上大寺内 僧房9宇 本尊岩本釈迦仏」とある。また「三上古跡図」には、妙光寺山にいくつもの堂宇が描かれている。 |
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鞍部まで戻り下山し始めると、琵琶湖の向こうにかすかに比叡山を仰ぐことが出来た(写真左)。草で覆われた滑りやすい急な下山路を下ると、やがて岩神に出た(12時13分、写真右)。ここから谷を渡って、磨崖仏を見学に行く。 |
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一枚岩をくり抜いた磨崖仏は地蔵立像で、鎌倉時代末の元亨4年(1324)と刻銘されていて、願主は経貞であることも記されている。手に宝珠と錫杖を持っていて、なかなかのものだ。ゆっくり見学したい所だが、時間がない。じっくりと見るのは、福林寺跡の小磨崖仏群と合わせて次回の課題とする。やがて登山口入り口へ下山したのが12時25分だった。ここから延々と国道8号を歩いて、御上神社まで戻った。
※これまで遠望するだけだった三上山だったが、今回歩いて認識を新たにした。なかなか興味深い山だ。近江富士と呼ばれるだけある山容は勿論だが、近江と深く結びついた信仰の山だけに、標高からは想像できない歴史の奥行きを感じることが出来る山だ。今度歩くときはもう少しじっくりと観察したいと思うのだった。
※さて、午後からの報告会には少し遅刻して出席した。「忘れられた霊場をさぐる−近江における山寺の分布−」をテーマとして栗東市出土文化財センターで開かれた。テーマにあるように、分布調査の成果をふまえて、山岳寺院を考えようというものだ。40名ほどの参加者の多くは地域からの参加者のようだったが、遠方の研究者の姿も見られた。
報告テーマは次の通り。
○藤岡英礼氏(栗東市文化体育事業団)「山寺の分布」
○福永清治氏(野洲市教育委員会)「境内道からさぐる山寺の遺構」
○両氏「比叡山三塔十六谷の遺構分布」
第1報告は、分布調査の成果から、分布論として近江における山岳寺院の分布の特徴を考えようというもの。これまで山岳信仰や修験道といった、仏教史の中でのみ考えられることが多かった山岳寺院を、考古学的な分布論から究明しようという研究。そのために山岳寺院の遺構配置を類型化して、それぞれのタイプごとに近江における分布の特徴をつかもうとするものだ。第2報告は、山岳寺院踏査の成果である遺構図を基にして、かつて仏堂であったり、僧坊が設けられていた削平地の分布と、それらを結ぶ道(報告者は境内道と呼ぶ)のあり方から、寺院を構成する階層に迫ろうというもの。この視点は青龍山ふもとの敏満寺の発掘調査(名神高速道路多賀SAに伴う調査)から導き出されたものでもある。第3報告は、今回の白眉ともいうべき、両氏が取り組んできた比叡山全山の分布調査の概要。遺構分布図は圧巻で、ただただ圧倒されるものだった。
3報告ともに非常に興味深いものだった。これまでの研究史を振り返っても、両氏の提起した問題がこれまで手つかずであったことを改めて実感した。
今後の課題に関わって、自分としてもいろいろ考えねばならないことなどを、三上山・妙光寺山の山行と照らし合わせながら、反芻しつつ帰路に付いたのだった。 |