×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

金峰山(2595.03m)
2006年8月26日
山梨県山梨市大弛峠より


レリーフの等高線は20m。スケールの単位はm。

(画像のうちいくつかはクリックすると拡大画像を表示します。戻るときはブラウザの「戻る」から。)

金曜日、早めに仕事を終えて高速へ。ETC通勤割引を適用させるため、8時少し前に中津川ICで一旦下りて再び高速へ。双葉SAへ着いたのは、夜の11時ぐらいだったか。ここで仮眠して、5時までに甲府昭和ICを出れば深夜割引が適用される。さあ、ぐっすりと寝袋に入ったのが間違いで、暑くて眠るどころではなかった。結局SA内の涼しい所で朝までNHK・BSを見て過ごす。4時過ぎに車を出すが、途端に雨。しかも、結構激しい雨。まあ登山口まで行ってみるかと、焼山林道を走る。もっとひどい道を予想していたが、工事中の所を除いてすべて舗装されている。ただし、道幅は狭い。朝靄の焼山峠には立派な駐車スペースとトイレまである。何でもこの焼山林道は他の林道と結んでクリスタルラインと名付けられている。案内板によると、峠付近にはハイキングコースも作られているらしい。小雨ながら降り止まない雨。こんな天候では車なんていないんじゃないかと思ったが、6時少し前に着いた大弛峠には結構とまっていた。その半分は車中泊。ごそごそと起き出しているようだった。立派な駐車スペースにトイレまである。しかも、標高が高いため寒いぐらいだ。こんなことなら、もっと早くここまで来て、ここで寝ればよかったと思ったのは後の祭りだった。どうしようかと思案していると、峠すぐ近くの大弛小屋に宿泊した4〜5人が車の所まで下りてきた。聞くと、登るという。車中泊の人も朝食の準備を始めた。みんな登るらしい。行ってみるか。合羽は持っているが、傘の方が便利かも知れないと、大きな傘をザックにくくりつけて、6時35分出発。写真右は登山口のベンチ。
急登だが、歩きやすい登山道は樹林帯の中。シラビソの森だ。開かれた所には岳樺(ダケカンバ)も入り込んでいる。気がつくといつの間にか、青空も顔を出している。この分なら言うことなしだが、。多分だめだろう、といつになく弱気。
最初のピークを越して下ると、朝日峠へ出た(写真左)。鞍部にはケルンが積まれているが、辺りを見ると古い峠道を見つけることが出来た。登山道は鞍部を過ぎると登りへ。樹林帯がとぎれて、岩場へとさしかかった(写真右)。
朝日岳への急登は岩塊の道(写真左)。これまでの岩相と違って、黒雲母花崗岩の岩塊だ。踏み外しさえしなければ、決して危険な道ではない。一息で登り切ると、石楠花の道へと変わった(写真右)。春先には素晴らしい道と変わることだろう。
7時40分、朝日岳(2581m)へ着。ここにはベンチが置かれていて、これからの急下降に備えることが出来ようになっている。本当ならば、ここから金峰山が間近に望むことが出来るはずだ。
朝日岳からの急坂を下ると、ガスの切れ間からずっと彼方に賽の河原が一瞬だけ見えた(写真左)。これまで登った分を一気にはき出してしまうような下降を続けて、やがて樹林帯のゆるやかな登りへ。ここで雨が激しく降ってきた。カメラはザックへ、傘をさして歩くことにする。昨日も雨でしたよと、山頂から下山してきた愛知県から来たという3名。昨晩は金峰山小屋を3名で独り占めしたという。でも今日は60名の満員ですよ、とのこと。なんでもコンサートがあるという。楽器を持って来る人が大変だ。森林限界を超えたと思ったら間もなく、賽の河原に到着した(8時50分、写真右)。
写真左は賽の河原の近景。手前の石積みの向こうに、石室跡がある。山頂方面を見ると、ガスの隙間からほんのわずかに山頂が顔を出していた(写真右)。雨はやんだようだが、この天候ではいつ降り出すかもしれない。あきらめて合羽を着込んだが、最後まで降ることはなかった。
写真左は崩壊した石室跡をのぞき込んだ所。山頂方面へはケルンが積まれていて、これをたどるように歩く(写真右)。
一寸先も見えないガスの中、黒雲母花崗岩の大岩に付けられたマークをたどって、慎重によじ登る。すると、急に岩の隧道が現れ、そこをくぐり抜けると山頂だった(9時14分、写真右)。周りを見回すが、何も見えない。五丈岩は目と鼻の先のはずだが、方向すらわからない。ザックをここに放り出して、カメラだけを持ってマークを頼りに岩をよじ登ったり、懸垂下降したりして下る。
間もなく方位盤が設けられた平場に出ると、指導標が立てられていた。金峰山の本来の登拝道を考える上でも興味深い。
ガスがやや晴れたと思ったら、いきなり目の前に五丈岩が現れた(写真左)。五丈岩の前には鳥居があり、鳥居前はやや広いスペースがある。金峰山信仰の歴史の中で、江戸時代に剣術の奉納試合が行われたと記録にあるのは、ここのことだろう。写真右は五丈岩を回り込んで見た所。
五丈岩周辺には、少ないながら花も咲いていた。写真左は小葉の小米草。山頂へ引き返し始めると、またガスが晴れてきた(写真右)。五丈岩前の様子がよくわかる。
山頂へ戻ると、2人の登山者が記念撮影をしていた。一人は山の会の新人歓迎登山とか。みんなちっとも来ないとガスに向かって呼びかけていた。あきらめかけた青空も、ほんの少しだけ(写真左)。賽の河原まで引き返すと、大弛峠からの登山者がやって来ていた(写真右)。
ハイマツの稜線は、この付近で唯一高山景観を持つ山と言われるのも頷ける。ホシガラスがハイマツの実を食べにやってきていた。貯食行動なのだろう。写真右は賽の河原中心部分の様子。大休止の後に、10時35分出発。今日はもう誰も登ってこないのかなと思ったら、何の何の。とんでもないたくさんの人とすれ違った。びっくりしたのは、12時近くになってもまだ登ってくる人のいること。その中には、楽器を背負った7〜8人のグルーブの姿も。今日は60人だそうですよ、と話しかけると、一斉におーっと声が上がった。
ガスの中、大弛峠へ下りたのは12時50分。びっくりするぐらいのする間が並んでいた。帰りは焼山林道へ下りずに、途中から杣口林道へ下りた。こちらの方が道もずっとよかったが、完成しかかっ琴川ダムの堰堤が不気味だった。下山してから、昇仙峡の観光地を脇目もふらずに車を走らせて、金桜神社へ。ここが現在の金桜神社なのだと感慨にふけった(写真右、詳しくは下の解説へ)。
※甲斐金峰山は山梨県と長野県境の奥秩父連峰と呼ばれる山塊にあって、奥千丈岳に次ぐ第2の高峰である。深田久弥は「秩父の最高点はこれより僅か数米高い奥千丈岳に譲るとしても、その山容の秀麗高雅な点では、やはり秩父山群の王者である」と評している(深田久弥『日本百名山』)。山名は山梨県側では「きんぷさん」、長野県側では「きんぽうさん」と異なる。
※金峰山を間近に見たのは、昨年の秋、瑞牆山山頂からだった。富士山を右奥に従えたかのような、堂々たる山容に目はを釘付けにされた。その時、いつかはその山頂を踏みたいと思ったものだった。先日の鳳凰三山に先立って、縄文時代集落跡として知られた山梨県笛吹市一宮町釈迦堂遺跡を訪ねた時、そこから五丈岩がそびえた金峰山を見つけるのに時間はかからなかった。縄文人が仰ぎ見た、関東山地唯一の高山景観を持つという金峰山は、必ず訪れたい山の一つとなったのだった。
※甲斐金峰山は山岳信仰の山である。里宮であった金桜神社の『由緒記』によると、かつては金丸山と呼ばれ、少彦名命が鎮座したことから山頂の巨岩を「御像石」と呼ぶようになったと紹介され、日本武尊東征の際に「御像石」の下に社殿を建立。仁寿元年(851年)円珍が吉野金峰山から蔵王権現を奉遷して、金峰山と呼ぶようになったという。
 一方の杣口の米沢山雲峰寺の『由緒記』にも円珍によって蔵王権現が勧進されたと記し、文化11年(1814年)成立の『甲斐国志』は、杣口の雲峰寺が金峰山の前宮であって、かつて里宮として栄えた金桜神社は既に荒廃し、雲峰寺の境内となったと記している。さらに「和州吉野ニ皇居アリシ頃ハ、諸国ノ山伏此処ノ金峰山ニテ修行セシ由云ヒ伝フ」(後藤祐二「甲斐金峰山」(『季刊 考古学』第63号掲載、1998年)と南北朝の争乱期に吉野金峰山が留山となった以降の隆盛が伝えられている。金桜神社所蔵の蔵王権現懸仏は南北朝前期のものと考えられている。また、1962年に勝沼市柏尾山白山平で発見された経筒の銘文には雲峯寺を指すと思われる「牧山村米沢寺」の文字が見える。如法経書写満願として康和5年(1103年)の銘がある。以上を整理すると、遅くとも平安末にこの地域が開かれていたことは確実で、南北朝期には吉野金峰山に代わって隆盛を極めたとされている。寺伝等によると、康和年間には堂塔頭58、其他塔頭10、修験5ヶ院、行者2軒、鎮護神殿、本地持仏堂、仁王門、末社等があった。しかし、天正10年(1582年)に織田方の川尻鎮吉勢に焼き討ちされ、その後地を移して再建されたものの寛文10年に再び焼失するに至ったとされている。
※金峰山からは遺物が多数採集されている。
(1)五丈岩周辺 半分に折られた宝相華唐草文金銅性円盤、かわらけ、渥美・瀬戸・常滑焼陶器片、土馬、銅銭、水晶数珠玉、釘、刀子等、最も多様な遺物が採集されている。鳳凰三山登山を前にした先日、山梨県博で実見することができた。
(2)犀の河原 錫杖の小環、銅銭、鉄剣等。またここに崩壊した石室跡があることは本文で紹介したが、これが『甲斐国志』が記す奥の院跡と推定されている(後藤祐二前掲論文)。
 この他には、金峰山小屋建設に際して北宋銭と明銭が出土している他、至る所から古銭等が採集されている。これらは行者の撒き銭と推定されている。また、江戸時代には山頂で剣術の奉納試合が行われたという記録もあり、賑わいを推し量ることができる。
 さて以上、遺物の上からは初源は10世紀の灰釉陶器を見ることができ、遅くとも平安時代後期には金峰山山岳信仰をたどることができる。五丈岩周辺採集の常滑焼陶器片は経筒の外容器と考えられ、平安時代後期の経塚が築かれていたと推定されている。
※山梨県考古学協会による金峰山山頂一帯の分布調査と同時に、各登拝ルートの調査も進められている。このうち、甲斐金峰山御嶽道(里宮から金峰山山宮に至る登拝道)のうち、山梨県側では2003年に牧丘町教育委員会により杣口ルートの調査が行われ、測量調査・試掘調査が行われた(榊原功一・大崎文裕「金桜神社奥社地の研究」(『山梨県考古学協会誌』第15号掲載、2005年))。それによると、金桜神社奥社地と伝承される削平地群からは、礎石建物跡他の建物群が検出されている。13号テラスと名付けられた削平地からは、縄文時代の遺物を除くと10世紀前半の甲斐型土師器が出土し、この頃に山房的な堂があったと推定されている。これに続いて、11世紀代にかけて観音堂と思われる礎石建物跡も含めた山岳寺院としての整備が進められたらしい。一方、13世紀代以降は急速に衰退したと、遺物の上からは結論づけられている。17世紀になると、奥社が再び整備されるのもつかの間、『甲斐国志』に建物の記述がないことから、19世紀初頭までには建物は再び失われたと考えられている。
 さて以上の成果からは南北朝期の隆盛はその証を認めることができないばかりか、天正年間の織田勢の焼き討ちの痕跡も認められてはいない。あるいは、これらは後世のフィクションであるのかもしれない。
※以上、各論文を参照して概観した。甲斐金峰山信仰その初源は10世紀代の灰釉陶器にたどることができ、加賀白山と同様の時期に至ることがあきらかとなった。10世紀代の山岳信仰の浸透が、美濃揖斐谷の地にも遡ることは20060806加賀白山の稿で述べた通りである。いずれも灰釉陶器がもたられされていることは、この時期の山岳信仰の浸透に合わせて濃尾(あるいは美濃)から灰釉陶器がもたらされていることは、注目すべきであろう。
 今回は大弛峠からの短縮登山だったが、本来の杣口からの登山ルートをいつか訪ねてみたい、と思うのだった。帰路、琴川に建設中の巨大な琴川ダム堰堤を見るにつけて、登拝道の水没が気がかりだった。